「ファイナルファンタジー10」のストーリーについての私の記憶。「物語」の圧力が信頼を生むことはなかった。それはあの「連合赤軍」のモンスターであった。

「ファイナルファンタジー10」のストーリーの具体的な内容を私はほとんど覚えていないが、思い出されるのは、ほとんど常に不和があったこと、「共鳴」が一度も聞かれなかったことである。パーティーの者たちが誰も彼も「自分にこだわっている」。見た目通りに。そのせいで不愉快だった記憶しかない。

そのように不協和音しかなかったパーティーが、「最後の戦い」を前にして何かを決断するためにとった手段が、最も不愉快であった。唐突に、ある年長者が「物語」などと言い始めた。そんなこと今まで誰も言わなかったのに。異様に強いトーンで、唐突に持ち出された前提のもとでの二者択一を迫り始めた。

別の年長者も同調して、同じ脅しに加わった。態度のでかい奴らが寄ってたかって主人公の若者に圧力をかけ、何かの選択を迫っていた。それは、異なる者たちが理解し合うための対話ではなく、ある特殊性が突如として異様なモンスターとして現れ、その脅しの圧力でギュッと締め上げるという手法であった。

それだから、「決戦」を前にしてさえ、そのパーティーに信頼は生まれなかった。皆が心から信じられるような共通の言葉、一般の理念は結局見つからなかった。唐突に持ち出された現代の流行の「物語」なるものを皆が「信じるふり」をして、その特殊なコードによって「まとまるふり」をすることになった。

しかし、その状況を見て、「ファイナルファンタジー10」のパーティーに対する私の信頼は決定的に失われた。まさにその瞬間に、私は彼らから「離れる」ことを決めたくなった。そんな奴らといっしょにラスボスと戦う気がしないし、たとえ「勝った」としても、それは真の勝利の喜びにはならないだろう。

あの時に「物語」の圧力で選択を迫ってきた二人の年長者「アーロン」と「ルールー」に対する深い不信感を抱きつつ、私はこのゲームのプレイから金輪際、退くことに決めた。この「モンスター」としかるべく「戦う」あるいは「対話する」選択肢が残されなかったことが、このゲームの最大の悲劇であった。

「ファイナルファンタジー10」のパーティーに忠誠(loyalty)や信頼(trust)の情は一度も感じられなかった、そこに真の愛(love)の働きは感じられなかった、と私は確かに証言する。それはおそらく、このゲームの作り手たち自身の関係のあり方を反映したものだろうと私は推察した。

あのゲームと同じことが真央ちゃんにも起きていると私は見ている。2015年頃からその嫌な気配をずっと感じてきたから。「ファイナルファンタジー10」の時は「こいつらとは金輪際、会わない」と決めて、離れることができたが、今回はそうではない。「戦う」あるいは「対話する」選択肢が今はある。

これの「参考文献」として、私は三冊の本を挙げることができる。

坂口弘『あさま山荘 1972 上』(彩流社、1993年)
坂口弘『あさま山荘 1972 下』(彩流社、1993年)
坂口弘『続 あさま山荘 1972』(彩流社、1995年)

「ファイナルファンタジー2」と同様に、「ファイナルファンタジー10」の底流にも「連合赤軍(山岳ベース、あさま山荘)事件」の記憶があると私は見ている。その一点において、「10」は「正統のファイナルファンタジー」の流れを引いている。「2」は文字通り「反乱軍」についてのゲームであった。

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