真央ちゃんのソチオリンピックについての私の解釈、叙述。器の破壊と修復。

2024/02/14

そもそも真央ちゃんの母が、表面を取り繕うようなことを嫌う人だったはずである。その証拠となる「母の声」を動画で聞いたのを覚えている。それだからこそ真央ちゃんはあのように育った。しかし、その「母の心」に背くような事態が生じている。この反逆によって真央ちゃんの魂から生気が奪われている。

そしてソチオリンピックのあの出来事の背後にも、私はこのような背景を見ていた。フジテレビがまさにそのような反逆者であり続けていたからである。「母の死」を奴らは感動の物語に仕立てるためにしつこく利用し続けていたからである。その愚劣な反逆による痛みから、あの涙が流されたものと私は見た。

私の直観を率直に述べるならば、ソチオリンピックの結果が全体としてあのようになったのは、「母の心」に背くフジテレビを「喜ばせる」ようなストーリーができてしまうことを真央ちゃんが心の奥底で嫌ったからだと思う。奴らを喜ばせたくない、という真央ちゃんの無意識の働きによるものだったと思う。

奴らは、自分の頭の中ででっち上げられた偶像である「浅田真央」の物語を、命のない機械のように語り続けていた。同様にソチオリンピックのフィギュアスケート会場の中でも、自らの頭の中で思い浮かべられた「ロシア」を信じる観客たちが、偶像の名を馬鹿みたいに連呼し、やかましく場を支配していた。

そのようなやかましい雰囲気の中で、真央ちゃんのショートプログラムは演じられた。それはその状況に対する一つの正しい反応のようであった。「それ」はそのように破壊されてしまえ、と誰かがそこで願っていた。その願いに呼応して、正しい「見本」として「器の破壊」が真央ちゃんによって演じられた。

「その小さい器」は内側の人間だけを喜ばせるものだったから、破壊される必要があった。そして、翌日のフリースケーティグで真央ちゃんによって演じられたのは「器の修復」であった。作り直された「器」には、前のと異なり、本物の命が宿っていた。それを「外」の広い範囲の人々も認めることができた。

容器の破壊と修復ということについては、佐藤優『同志社大学神学部』(光文社新書、2015年)でユダヤ教のカバラー思想を紹介する流れで書かれている(93~95頁)。それについて私は数日前に思い出し、ここで紹介したいと思っていた。その影響で今回のようなことを書くことができた。

また、ソチオリンピックからちょうど10年が経ちつつあることについても、私は何日も前から意識していた。そのタイミングで、「機が熟した」から、ようやくこのようなことを書くことができたのだと思う。

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