2217年、とあるボイストレーナーの話

 2217年、11月。おれは都内でボイストレーナーをやって生計を立てている。

 ボイトレが進化、浸透したことで50年、100年前からすれば歌手というより一般人の歌の平均レベルは恐ろしく上がっている。ただし楽曲もその分難しくなって、イタチごっこの状態だった。
 ボイストレーナーは激減している。近年ボイトレは独学でほぼ間に合うからだ。音大や専門学校も、ハイレベルな仲間同士で競い合ったりコネを作る以上の意味はない。26番まである汎用トレーニング、そして喉や体のスキャンと診断アプリがあればどこが弱くて何をして鍛えればいいかが一目瞭然。メソッド(死語)は確立していて、診断だけならAIでもできる。

 もちろん人間が生で直接聴かないとわからない場合もあるが、それも主流は特定の楽曲を仕上げるためのボーカルトレーニングだった。プロを目指す人、オーディション対策くらいしか若い人はボイトレを受けなくなった。ボイトレは独学が難しい子供の習い事として、あるいは高齢者の暇つぶしとしての利用が多い。おれの客も大半がそうだ。
 今時のボイストレーナーは喉頭医、精神科医、整骨院などストレッチのプロとの連携が欠かせない。短期的に改善が難しいケースでもほとんどが投薬とフィジカルトレーニングで事足りる。診断の仕事は、ほとんど仲介業みたいなものだ。健康保険が段階別に広範囲に効くようになってから、おれみたいな料金も安い零細ボイストレーナーでもなんとかやっていけるようになった。保険すごい。

 おれは一応ポップスで音大を出たがプロ歌手としては鳴かず飛ばずで終わり、バックコーラスなどの仕事も性に合わず若くしてトレーナーになった。稼げないのにトレーナーになるのは今時珍しいが、実家が太いのでまあなんとかなっている。
 おれの話はどうでもいい。重要なのはこの後の話なのだ。


 自宅兼スタジオのインターホンが鳴った。次の客は初めての男だった。やりとりしたメールによると品川一郎。偽名くさいが、よくあることなので別に気にしない。
「失礼します」
 中肉中背、グラスマスクの男だった。グラスマスクとは、眉から鼻までを覆った大きめのサングラスだ。匿名化、プライバシー保護の時代に合わせて最近ではすっかり当たり前になった。一般人がマスコミの前で会見しなければいけない場合など、顔を晒したくない場合に使う。ネットのオフ会など知らない人と会う場合に使ったり、監視カメラ嫌いの人も使う。
 ボイトレレッスンを受ける場合にもたまにいる。だいたい打ち解ければ素顔を晒すのだが。

「ある程度の経験者ということですが、ではまず8番をやってみましょうか」
「あっはい」
 いつものように最初の診断をする。聴いてすぐ圧倒された。うまい、というかすごい。プロになれるレベルだ。おれの客では珍しいタイプ。
 さらにいくつかやってみる。どれも問題はない。診断機の反応もバッチリ声帯から筋肉まで動いており、安定性も高いだろう。この診断機はプロ用で10万以上したが機能は民生用と大差ない。2万円くらいで買える小型の個人用でも十分だが、見た目が重要なのだ。
 もしかしたら現役のプロかもしれない。顔を隠すのもそういうことか。おれは診断結果を述べつつ、プロレベルですねと絶賛した。
「やった。来てよかった」
 男は妙な喜び方をした。

 レッスン後半はほとんど雑談で、徐々に打ち解けて来たというかグラスマスクの男は饒舌になった。ただしマスクを外すことはなかった。
「ホラ話として、聞いてもらえますか」
 さらにくだけた調子で、男は言った。
「カラオケで、『あなたの声は○○年代』ってありますよね」
「ええ」
 たしか1980年代からだったか、採点の一種で、カラオケ機がいいかげんな診断を下すやつだ。おれは10代の時から、あれで散々オッサンくさい声だとからかわれた。
「あれが、未来、私の時代ではもっと進化していまして」
「ほう」
「それで実際に確かめたくて、時間旅行で来てみたってわけです」
 にわかには信じがたいが、嘘をついているようにも見えない。声にも流行がある。男の声は、たしかに今の時代のトレンドではあった。
「本当に? いつの時代から来たの?」
「それは、守秘義務で」
「この時代で、歌手としてデビューしたいと?」
「いえ、それは規制があってダメなんです。期間も1ヶ月、30日しかいられなくて」
 なんか話が具体的になってきた。マジかよ。

「実は過去のNHKのど自慢に出て優勝した人が、時間旅行人だと発覚して逮捕された事件が最近ありまして」
 なんだそれは。ネットで炎上じゃなくて逮捕までされるのか。
「旅行先でメールやSNSのアカウントを作るのはOKで、文章も厳しくチェックされますが公開自体はできて、顔を出さなければ動画もOK、つまり音源公開する分には問題ないんです」
「ほうほう。つまり、ネットだけで音源公開して人気者になれるかテストしに来たと?」
「その通りです」
「でも、30日じゃすぐ終わる」
「永住はできませんし、元々そういう趣旨のツアーなので」
 大丈夫なのかそのツアー。そのうち問題になるんじゃないのか。
「うーん、一から垢作ってスタートして30日じゃ、実力あっても厳しくないですか」
「拡散とかは、工作してくれるスタッフというか添乗員がいるので大丈夫です。歌も練習済みというか元々この時代の曲は好きだったので」
「なるほど抜かりはない感じなんですね。するとこの後レコーディングとかも」
「ええ、まずはレコーディングして、最初の1週間くらいで音源公開していく感じです。あとは普通に観光」
 既にレッスン時間は超過しており、そこまで話したところで男は礼を言って帰っていった。


「マジかよ…」
 それらしいワードでググってみるがヒットしない。当たり前だ、相手は未来から来ているんだから。
 1週間ほどして、動画投稿サイトのランキングを見ていたらブレイクした新人がいた。音源のみで、明らかに品川一郎だった。他にも何人か似たようなのがいて、同じツアー客だったと思われる。案の定、5件くらいの投稿でそれらの垢は活動がぱったりと止まった。ネット活動が成功したんだから、まあこれでよかったんだろう。

 2ヶ月ほどして、そんな男の話も忘れかけて来た頃、携帯電話が鳴った。知らない番号だったが出る。すると威圧感のある声が告げた。
「警視庁の者ですが、あなたが以前レッスンされた品川一郎という人物について伺いたいのですが」
 マジかよ…やっぱり後で問題になったんだな。面倒ごとを増やすんじゃねえよ。おれはため息をついた。インターネット承認欲求の闇は、いつの時代も深い。