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All you need is MUDA!

時制は前後します。

今は、京都への引っ越しを数日後に控えた、8月10日の深夜。まだまだここに至るまでの経緯はあれど、今、16年住み続けた東京・目黒の我が家をひとり片付けながら思ったことをちょいと書き記してみたいと、ふと。

この部屋は、子供が生まれる前に購入した、小さいけれど、窓を開ければ裏に大きな緑の公園が広がる居心地のいいマンション。かつて遊びに来てくれたジャド・フェア師匠に可愛い絵を描いてもらった壁を持つ、結構素敵な場所、でした。でした、と過去形で書いちゃうのは、ま、妻亡きあと、部屋は少しずつ少しずつ荒れはじめて、加え、子どもたちも少しずつ、いや、一気に成長を続け、興味の対象も多岐にわたり、部屋にはさまざまな玩具や遊び道具がとっちらかって(ま、これはすべてのご家庭で分かっていただけることでしょう!)、いろんな想い出もあるこの部屋も、もはや“棲家”としか呼べない、ただ暮らすためにある場所になってしまっていました。

元々モノが多い家庭に加え、子供の荷物もあるから地獄。正直、レコードやCD、書籍に関しては、7、8年前に、妻が一気に「ここらへん、もうしまう場所がないんで、レコードとかCDとか売っちゃってもいいよね?」と勝手に判断、ちょこちょこと売られはじめて、たぶん半分以下、レコードに関してはほぼほぼなくなっちゃったような記憶があるんですが……なんで何千枚単位でまだまだ残ってるんだろう? 自分、そこまで音楽好きだっけ? いや、好きだったんだな、きっと。もちろん、今でも好きだけれど、ここまで聴きたかった自分を改めて知ることに……馬鹿だなぁ、まったく。もちろん、引っ越し恒例のアルバムや写真あたりを見つけてしまい、ノスタルジックな想いで作業は遅々として進まず。父として反省。

そして、ようやく皿やコップに手を出し始めた。ここらは、引っ越しの中でも一番面倒なあたりで、ひとつひとつ皿をコップをくるみながら、「あぁ、こんなお皿持ってたんだ!」と思いを馳せる。え、なんだ、この皿。チャイナシーズのこんなの、あったな、たしか。あ、裕美が海外のスウィフトストアで買ってきた、安っちいけど可愛い皿だ。こっちには、popoの喜多村くんが作ってくれた味わいのあるお皿もある。なんだ、こんなにたくさん、面白い皿があったんだ、ウチの家には。

そういえば、この数年、子供のために毎日毎日ご飯を作り、毎日毎日皿を洗い、毎日毎日棚に閉まっていく日々の中で、どんどん「皿」が、単に「料理を載せる」機能しか果たしてなかったことに気づきました。白皿、それも大きめの四角いのと、小さめの丸いの、それとお茶碗と味噌汁、いくつかの小鉢……その程度だけで全部済ませていたんだな、と。もちろん、それの何がいかんのか? ご飯を食べるのには、それで十分じゃないか、というのも重々わかるし、自分自身、考えることさえなかった。ご飯はお腹を膨らせるもの、です、たしかに。でも自分はご飯屋さんをずっとやってきて、どうやったら美味しく食べてもらうのか、毎日毎日考えていたんじゃないのか? なのに、家に帰ってきたら、子供に「ご飯は楽しんで食べよ!」と言ってたにもかかわらず、自分は作ったり配膳したりすることを全然楽しんでなかったやーん、と。

「そんなん無理無理!」と全国のお母ちゃん(そして、ご飯担当のお父ちゃん)は言うかもしれない。そりゃそうだ。子供のいる生活の中で、ご飯を余裕を持って食べるなんて世界は、夢のまた夢だったりするのもよく分かっております。日々の生活を無事終えるだけで十分じゃないか、と思いますし。

でも、自分は、ずっと「無駄」を食べて暮らしてきたと思っています。「多くの人にとってはどってことないことけれど、自分にとっては大切なこと」を必死こいて守ることで、なんとかかんとかやってこれたように思えます。例えば、音楽や本が好きなのは、それが自分の人生にとって「糧」になるもんじゃなくって、まったくもって「無駄」なものだからこそ、楽しい。そんな無駄なものを「ホンット馬鹿だなぁ」と思いながらも、お金払って手に入れて聴いて、ワクワクして、気持ちを上げて行けるんだってこと。だからこそ、そういう「無駄」なことを許すことすらできない現実や、懐と料簡の狭い世の中が嫌で嫌で仕方ないのです。例えば、ここ数日話題を集めてる名古屋のトリエンナーレにおける「表現の自由」の問題に関しても、「憲法21条がどうのこうの」とか「この表現が稚拙」とか、「慰安婦の問題は微妙で……(いや、ホントは微妙でもなんでもない事実があるやん!)」とか、そんなことじゃなくって、たんに「人が作るもんにいちいち国家権力が文句言うんじゃない」ってこと。好きなものを作ったり、考えたことを吐き出したり、無駄としか思えない作業を繰り返したり、そういうことのひとつひとつを「自分はちょっと気に食わない」と思うのは勝手だけれど、それを潰しに来る権力や圧力に対しては、はっきりと抵抗したいと思っています。自分の大切な「無駄」を守るために、声を上げるし戦う。もちろん、他にも戦うべき理由は山ほどあるけれど、無駄を排除していく「効率的な世界」は、僕が夢見ている未来ではないとずっと思っています。

あ、なんだか話が大きくなりすぎた! でも、そんな感じ。別に毎日、白いシンプルな皿でご飯食べてもいいんだよ。ただ、せっかくこんな素敵な皿があるんだったら、ときどきそれに合わせて、ちょいと美味しいおかずを作ってみたらいいし、いつもとおんなじサラダでも、あの皿に盛り合わせるだけで、子どもたちは喜ぶかもしれないわけで。でも、そんな簡単なことすらできなかった。その程度のことすら、考えたこともなかったのです。

あと、まだ子供が生まれる前に買った、夫婦だけの暮らしでは不必要極まりない大皿が棚の奥からゴロゴロと出てきました。なんでこんなもの買ったんだっけ、と考えるに、そうだ、あのころ、海外からアーティストを呼んだりしたとき、そして友達になにかいいことがあったとき、いやなんにもなくっても、いろんな友人を家に招いて、ご飯を作ってお酒を飲んで自宅で大騒ぎをしていたなぁってことをふと。先に述べた家の壁にジャド・フェアの絵が書かれてあるのもそんなパーティ……否、宴会の痕跡だったりします。そして、そんな宴会、他者へのふるまいを続けていた先で、なぎ食堂って「お店」を始めようとしたのでした。いや、ほんっと、忘れていた。完全に途切れていた! 自分にとってお店って、生活の糧なんかじゃなくって、自宅宴会の延長線上だったのです。毎日料理を作ることで糊口をしのいできたがゆえに忘れちゃったんだなぁ。あぁ、馬鹿だなぁ。そして、もう何年も使っていない大皿、大鉢を新聞紙でくるみながら、再びこれを使うような日が来るのか、どうなのか、と少し考え続けています。いや、そんな日が来たらいいなぁ。

うーん、でも、まだそんな悠長なこと、ことできる余裕はなかなかないかな。でも、いつか、そんな余裕、そんな無駄を楽しめる時間が来たらいいなぁ、とふと思っておるのです。

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