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編集という、とても楽しく辛い仕事。

【備忘録】のような。

自分は20代の後半から30代のほとんどを雑誌を作ったり、レコードを作ったり、文章を書いたりすることを仕事にしていました。しかし、不惑を前にして、自分の立ち位置を示す意味と、生活の糧としてなぎ食堂というヴィーガンレストランを始めて、気づくと12年、ほぼ毎日中華鍋を振り続けてきました。ただ、自分が何者か問われると(ま、特に問われることもないんですが)、食堂店主であると同時に、ことあるごとに「編集者」であると言い続けてきたし、ほぼ本を作っていない今でさえも、ずっとそう思っています。デザインをやるのも印刷するのも、料理をつくるのも、店をやるのさえも、大きな意味での「編集者としての経験の一部」としてやってるつもりが、ずっとずっとありました。そして、京都に移るに際して、再び「編集者」として本やレコードを作りたいと思っているのです。

「編集」という仕事、よく聞く言葉だけれど、多くの人にとっては、実態が見えないものなのだろうといつも思っています。本は、ライターや作家が書いて、それをデザイナーや装丁家が形にして、印刷所が刷ってできあがる、と思っている方もおられると思うけれど、それではできません。いや、形としてはできちゃうんですよねぇ、最近は。できちゃう。できちゃうんだけれど、それが本なのかどうなのか、いや、自分たちが求めてる本と思うかは分からない。それを批判するわけじゃない。でも、僕はやっぱり【編集された本】が好きなのです。丁寧に校閲/校正された、とか、細かい注釈がついた、とか、そんな具体的な話じゃなくって、一冊の本の中で、必要な言葉と不必要な言葉と、不必要なんだけれどあった方が面白い言葉と、必要なんだけれど興味がわかない言葉が、見えない場所である意思のもと、ふるいにかけられた本が好きだったりするんです。そうじゃない面白さも分かるんだけれど。

例えば、zineの面白さは、A4の紙を二つ折りにして重ね合わせて、ホチキスで止めたからzineになるわけじゃない。編集者というか、そういう客観的な視点が存在せず、作者/作家の主観がそのままどろどろと溢れ出し、それを止められない感じこそ面白いんだと思っています。ほかにも、例えば、インターネットの個人ブログの、淡々とした普通の生活なのになぜか毎日見てしまうような、そういうものももちろんあるし、大好物。でも、「本」ってものになるときは、どうしても作った人間の主観のみで語られるのではなく、神の視点ってわけじゃないんだけれど、どこか俯瞰して見つめるような、そういう視点があるのが、僕は「本」の魅力であり、編集者の力だったりするんじゃないかな、とずっとずっと思ってきて、今も思ってるのです。そういう本を、ずっと作っていなかった。そういう雑誌をずっと作っていなかった。だからこそ、ふと、今、立ち止まったとき、作りたいな、と。

個人的にとても尊敬する人であり、長らくお世話になっている方から、このnoteを読んで、「小田君の1番力のある、実績のある事(なぎ食堂)を京都でやらないのか」との指摘を受けました。えーーっと、ま、そこらへんの話はいろいろとリアルな展開もあるので、このあと話の流れも含めて細かく書いていこうかと思いますが、心の中では「自分は何よりも編集者なんだよー」って気持ちもあったりするのですよ(笑)。ま、なっかなかいろいろと思うところもあるわけで、とにかく乞うご期待。ということで、今、ホホホ座の上で印刷スタジオをやる、そこで編集仕事を新たに始める、というのは、上記の理由だったりするものです。

また、この先、印刷スタジオをホホホ座の上でやるということであれば、作った本を売ることもこれまで以上にやりやすくなるだろうし、自分の印刷スペースを物販スペースと兼用することもできる。「本」ということに関して、今、京都でもっとも精力的な活動をしているチームであるホホホ座さんと足並みを揃えるということは、自分ひとりではできなかったこと、例えばアートブックフェアを京都で開催したりとか、ちょっとした共催イベントをやったりとか、ともに編集して出版レーベルを始めたりとか、そんな類いのことまで考えられるなぁ、と。もちろん、それぞれが、個人個人が責任を持ってやっていることだから、手を繋いでもらえないことも多々あるかもしれないけれど、そんな「考えてもみなかった展開」に、今、少し、いや、かなりワクワクしていたりするのです。

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