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25年以上も前のことだけど。

去年の年末、当時中一の長男とともに、久々に京都は左京区、京都大学のあたりに戻ってみた。25年前に僕が住んでいた左京区は東一条のあたりをぐるりと歩く。どうも息子は森見登美彦が最近のお気に入りで、小説の中に時折出てくる左京区、そして吉田山近辺の話しにぐっと来ていたようだった。その数日後、関西在住の大好きな友人とともに、ふたたび吉田山を歩き、元田中を歩き、あのころから大きく変わっちゃった場所、そして変わらない場所をひとつひとつ確認しながら、あぁ、この場所にも一度戻ってきたいな、とふと思ったりしたものだった。もちろん、そんなに簡単に、この魔都が自分を受け入れてくれるなんてふうには思ってなかったのだけれど。

ときは25年以上前、僕は大学を卒業して、モラトリアムでアメリカをぶらぶらしたり、夜のマンハッタンで呑んだくれたり、京都の街で呑んだくれたり、いきなり殴られたり、血まみれになったり、でも結構平気だったり、そんな生活をしていた。そこらの話しは、前回書いた自著『渋谷のすみっこでベジ食堂』にちょこちょこと書いている。

渋谷のすみっこの話しなのだけれど、自分が場所になぜにこだわるか、って話を説明するために、京都時代の話をあえて書き記したりしていたのだった。この本の京都部分に関して、京都のいい感じの本屋さん、誠光社の堀部さんが、うれしい言葉で書いてくれている。

実は、この本に書いたものの、結構無駄に書きすぎた原稿があって、いくつかの章はばっさりと削除したりもしている。その中でも、自分にとって、とても大切で、でも、もうここには立ち会えないような、そんな文章が見つかったので、ここにあえて掲載。

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 いくらタダ酒が好きだと言っても、それだけで5年近くも同じ仕事が続くわけはない。何よりもセサモという場所と、ここに鳴り響いていた音がたまらなく面白かったから、この店を離れることができなかったのだ。
 小さなバーやカフェで生演奏が行なわれるのは、そんなに珍しい話じゃない。ただこの店は酒を飲みに来る人のための店であり、500円のテーブル・チャージはいただくものの、基本はやっぱり普通の飲み屋だった。ピアノとマイクがあるけれど、まともなPA機器もアンプも用意されてないような場所。ただ、店長のFさんのちょうどいい湯加減をいいことに、ミュージシャンは、自然な流れで自分たちのちょうどいい遊び場へと形を変えていった。

 オープン当初から週一で入っていた京都のセロニアス・モンク、市川修さんは、いつも少し苛つきながら演奏していた。プロフェッショナルゆえに、BGM的に聴かれてしまう可能性があることは十分理解していたけれど、演奏をまったく無視して大声で話されるお客様に対して、演奏を途中でやめてクレームを入れることも少なからずあった。僕らはミュージシャンとしての市川さんの気持ちも分かるし、音楽にはまったく興味なくお酒を飲みに来て、普通に話して怒られているお客様の気持ちも分かったけれど、両方にただただ平謝りしながら、なんとかならんもんかなぁ、といつも思っていた。
 もちろん市川さんもそんな状況を打破せねば思っていたのだろう。プロ/アマ問わず、関西近辺のジャズメンたちに声をかけ、定期的に夜の12時過ぎからジャズメンたちが自由にアドリブ演奏を繰り広げるジャム・セッションを始めた。夜も遅いというのに、最盛期にはこの小さな店に20人以上のミュージシャンがぎっしりと詰まって、爆音で演奏するその様はかなり感動的なものだった。また、通常の演奏も、当初は市川さんのソロだったはずが、ミュージシャンを加えてのデュオやトリオ形式が増えてきた。そうして連れて来られたミュージシャンの1人が、一年間のアフリカ旅行から帰ってきたばかりのウッド・ベーシスト、船戸博史さんだった。
 市川さんが「天才・船戸」と手放しで賞賛していた通り、船戸さんの演奏は粗野ながら強烈、明らかに他のジャズメンと一線を画すものだった。店長のFさんは、「僕、音楽のことは分からないから」と言いながら、早速セサモでの次の演奏予定を打診していた。「知り合いとデュオで演ってもいいですか?」とまだ20代後半の船戸さんはニコニコ笑いながら応えていた。

 それからしばらくして、船戸さんは赤ら顔のトロンボーン奏者、大原裕さんを帯同してやってきた。「トロンボーンとウッドベースのデュオって、なんじゃそりゃ?」と訝しんでたのも束の間、演奏が始まった瞬間、カウンターの中は、一歩も動けなくなっていた。アート・アンサンブル・オブ・シカゴのようでもあるのだけれど、大原さんの強烈なブロウと即興で奏でられる美しい旋律、パーカッションのような船戸さんのベースと絡みついて特別にプリミティヴな響きを醸し出していた。
 そして2ステージ目の途中、背の高い男が店に入ってきて演奏を少し聴いた後、「何か叩けるものない?」と訊いてきた。「いやぁ、この店に楽器があるとしたら、壁にかかってるアコースティック・ギターくらいです」と僕。「じゃ、それ借りるわ」と彼はいきなりギターを取って、その裏を叩き始める。その瞬間、どんどんファンクネスが加わっていく。何者だ、この背の高い男は?と思ったら、その後ROVOやオルケスタ・リブレで活動するドラマー芳垣安洋さん、その人だった。そして、衝撃的な演奏を行なったこの大原裕トリオは、すぐに隔週土曜日のレギュラーとなり、半年ほど演奏を続けた後、その名をサイツに変えた。
 サイツはとにかく凄かった。さっきまでカウンターで酒を浴びるように飲んでいた輩が、息をするように自然に三人三様の演奏を始め、短く印象的な旋律でピタリとひとつに絡み合い、いつの間にか強烈な高揚まで連れて行ってくれる。それは演奏というよりも魔法のようでさえあった。
 そしてサイツがセサモでの演奏をはじめて1年くらいのある晩、本来ならば2ステージ目は11時くらいからの予定が、押しに押して深夜の1時前からのスタートとなった日があった。土曜日ゆえ、深い時間にもかかわらず店内には飲みに来たお客様でほぼ満席になっていた。しかし、そんなお客様に爆音での即興演奏が果たして受け入れられるのか? 大丈夫なのか? と不安を感じていたのも事実。しかし、それから15分後、予想は大きく裏切られた。店内にいたリーチ目のカップルから隣の花屋のご隠居さん、若いバンドマンたち、地方情報誌の編集者、近所の電気屋のオヤジ等々、もちろんカウンターの中の自分たち(そこには、ふちがみとふなとの渕上純子やmama! milkの清水恒輔もいた)も含め、その音に導かれてニコニコと笑いながらゆらゆらと体を揺らし、床を踏み鳴らし、奇声をあげ、そして皆、狂ったように自由気ままに踊り始めたのだ。店全体が泥酔状態にあったとはいえ、それは後にも先にも感じたことがない恐ろしく幸せな光景だった。音楽にはそんなとんでもない魔力があるのだ、ということを知った瞬間だった。
 あれから25年以上、僕は今もなお金にもならないイベントを企画したりレコードを作ったりと音楽に関わり続けている。その理由は、たぶん、あの夜みたいなとんでもない瞬間をもう一度体験したいからだとずっと思っている。そんなときが来ることをまだまだ待っている。
 残念ながら、セサモでの店内ライヴは、この後少しずつ少しずつ縮小する形へと向かっていき、大原さん、そして市川さんは、この世を去った。

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25年前、僕はあの街に本当にいた。そして、ふたたび、僕は、あのぬるくもピリピリとした街に行くことになった。怖いなぁ、大丈夫かなぁ、とビビる自分に、渕上の純ちゃんが一言ぽつりと声かける。「また、始まりまっせ〜」と。


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