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 投稿する余裕がなくまたしばらくが経ち、思考があふれ出してしまい
何を書き留めたかったのかを思い出せないくらいどこかに流れて行ってしまいました。だから、久しぶりにnoteに書いておこうと思った今日は、昨日ふと思い浮かんできたことを書いておこうと思う。

いつもいろんな「ことば」に違和感を感じるのだが、昨日は「個性」
今までも少しの違和感はいつもその言葉に持っていたのですが、昨日はあふれるほど一気に湧き出てきました。

普通にあちこちで見られる記事や表現がどうも最近は薄っぺらいものに感じてしまい、なかなかスッキリくる記事を読むことができなくなってきました。なんだか耳障りの良いことばを上手に連ねる記事が多くて、ついつい心の中でツッコミ入れてみたり、毒吐いてみたりしています(笑)「そんなことじゃあ騙されへんで~」と思いながら。ひねくれ者かあるいは天邪鬼でしょうか?わたし。(笑)

「発達障害」を「個性」だという人に聞きたい。そ「本当にそんな風に思っていてくれるのですか?」とそう思うならそのようにずっと受け入れ「発達障害」のために生きづらさを抱える人たちを受容してほしいと。「個性」と言うなら「個性」として扱え!!と言う話です。
「個性」と言うことは「いきづらさ」の程度はファジーなほど狭間にあると言うことにして取り扱ってと言うこと。
「個性」と言いながら受け入れる懐の広さもないのに平気で「個性」と言い「発達障害」があっても大丈夫と言ってる割りには「就労移行支援事業所」や「就労支援事業所」をやっていたりする。
そう、「障害者」として区分する世界に彼らを囲い込んでいるくせに。
福祉の事業として公的な資金が投入される事業をやっているのだ。
あれー、おかしいな~。「個性」と言うならその人たちはもっと社会のありとあらゆるところに居場所を見つけることができる存在であるということではないのか?

「発達障害」なんてないって言う人はどの人達をさしてそんな風にいっているのか?明らかに深刻に生きづらさを持っている人は存在していて周りの人たちの理解やサポートが無ければ辛い毎日で耐えられないと言うことをしっているのか?もちろん、そういう生きづらさを持っていると知ってもらっても環境や社会がその人に優しくなるか?と言うとそんな簡単にはいかないけれど。

知能が低くないからITの仕事ならできるだろうとITの学びを習得させようとする事業ならば、彼らが一定のスキルを獲得できたなら、それは「障害」の枠を外した雇用であってほしい。なぜそこに「障害者雇用」としなければならないのかがわからない。すべて雇用する側の都合の良いようにしているのではないのか?と憤りを感じてしまうのだ。

都合の良いことを上手に言う人たちの薄っぺらい言葉にどうかだまされないでほしい。
障害の有無は別として、自分の未来を拓くのは自分であり、そうできるようにそだてるのが周りの大人たちなのだ。



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