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ふけりますか

貧乏くさいったらありゃしない。

本を読むスタイルは人の数だけある。
読書法を謳う本によると、目次を「読む」「読まない」、本編はつまみ読み「しろ」「するな」
いったいどれが本当なんだ?

その類の読書本は、判断の邪魔になるから、気にせず好き勝手に読んでいるが、そもそも読書への認識が違っていたようだ。

「読書は思索の代用品」

自分の頭で考える際のツールでしかないという。

読書している間は、自分の頭で考えていることにならない。
考えて、脳に汗をかいて、ようやく出てきたものが自分の真理。

今まで、本は隅から隅まで読みつくして、インプットするためのツールと考えていたので、ドキッとした。

近い未来、情報を脳にダウンロードできるようになれば、読書という行為は
減るかもしれない。ならば、大事なのは「思索」だ。

ドイツの哲学者、ショウペンハウエルは
「読んだことをすべて忘れないようにしようというのは、食べたものを
すべて体内にとどめておこうとするものである」
といっている。なるほど。

忘れないための読書には意味がない。消化してこその読書。

さらに、吸収した栄養素を昇華できたら本望だ。

書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎないという。

ということは、今、つづっていることは、意見ではなく解釈なんだな。

ところで、良書を読む条件は、悪書を読まないこと。当たり前のようだが、悪書を見分ける力が求められる。
では、良書とは何か? いつの時代も通用する古典らしい。

なんでもかんでもおぼえておこうという貧乏くさい読書スタイルは、いますぐ捨てて、古典を読むことにしよう。

さて、どれがいいのか? 良い古典を選ぶ力も必要だな。

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