デヴィッド・ロウリー『さらば愛しきアウトロー』短評

 老人の手口はこうだ。銀行の窓口に立ち、礼儀正しい言葉遣いで融資の相談を持ちかけながら、笑顔でパッと上着の前をはだけてみせる。カメラは彼の胸元に何があるのかを直接映さないが、かすかにカチッと撃鉄の上がる音がして、目の前の行員の顔がささやかな驚きと恐怖でひきつるので観客はその正体に気づくことになる。そこには銃があるのだと。

 「彼は一度も銃を撃ったことがない」。このセリフがロバート・レッドフォード演じる上品な強盗の性格を象徴する。ただ、彼の手口は強盗というよりむしろ詐欺に近いのではないだろうか。彼に毛頭撃つ気はないが、銃を見れば相手が自分の要求に応じるとよく知っている。銃を見ればいつかそれが発砲されることを想像する。犯罪者は相手の想像力に期待している。本編の途中で窃盗団がモーテルのテレビで見ている映画は、私の記憶が確かならジョン・フォードの『駅馬車』(1932)ではなかったか。強盗と行員の間で交わされる、一寸先の未来についての想像。その未来は決して起こることがない悲劇だ。敵と味方であるはずの二人が共有してともに避けようとするその未来は、古い映画の記憶から引用される。

 1981年。時代設定が現代ではないのはこれが事実だからだろうが、理由はきっとそれだけではない。きっと相手はこう想像する。そういう物語を生きることができた過去の話を本作はしようとしている。現代が舞台だと困る理由は他にもある。現代の映画、アリーチェ・ロルバケルの『幸福なラザロ』(2018)では、破産した友人の資産を取り戻そうと銀行に押し入った貧しい少年が行員から「ここに現金はありません」と断られる。これはイタリアの話だが、1981年ならまだアメリカの現金はまだ形のある物だった。レッドフォード演じるアウトローは紙幣にメモを書いて刑事に残す。やがてその紙幣は彼の元に帰ってくる。そういう物語は決して現代にはない、回想の中のできごとなのだろう。

 「宇宙の外側にでも行っていたの?」。ダイナーで食事をしていると、彼が今口説こうとしている女が、店の中にいる警官に気がついて気を取られた彼に向かって声をかける。彼女は彼が強盗で脱獄囚だと知らない。彼は犯罪者として、彼女の知らない人生を生きている。同時に犯罪者である彼は、いちいちの取引相手の窓口の行員たちも知らない人生を生きている。犯罪者の人生はどこにあるのか。ロウリーの前作『ア・ゴースト・ストーリー』では、自動車事故で亡くなった男の幽霊が遠い未来と遠い過去へ旅をした後、もう一度自分の慣れ親しんだ家に戻ってきた。これにアウトローの物語を重ねてみたい。幽霊が外の宇宙から戻ってくるように、犯罪者は別の経歴から誰かの人生にまた戻ってくる。詐欺師はこうして一つの宇宙の中で人生を複数に多次元化させるすべを心得ている。それはちょうどフランスの巨匠アラン・レネが時間迷宮のサスペンス『去年マリエンバートで』とほとんど同じかより洗練されたやり方で、1974年に『薔薇のスタビスキー』という詐欺師の映画を作ったのとほとんど同じやり方で。

 「彼は一度も銃を撃ったことがない」。今犯罪者を追う刑事は、かつて彼を追っていた別の刑事からそう聞かされる。何度も同じ出来事が回帰するうちに私たちは同じ想像を共有するようになったのかもしれない。同じ想像の共同体の中では、暴力を直接用いなくとも、それを自分と相手とが想像するだけでことがなしとげられる。暴力について。イーストウッドが「ことがなしとげられなくなった」男たちを描いた後で、タランティーノが会話を続けることで「ことが起きる」のを先延ばしにするのを描いた後で、ロウリーは銃があるだけで、発砲がなくともことが成し遂げられる世界を描いた。暴力は象徴化され、実際に起きないことで、お金に変換されていく世界。それはもうなくなった世界の話だが、それについて語ることはまだ新しいかもしれない。1981年にはまだもう一つの宇宙を想像し、それを前提に取引することが可能だった。2010年代にその取引はほとんど不可能になったのではないか。

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