<ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校>グループC『完全なる仮説』展評

 <ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校>第3期の受講生たちが、カリキュラム最終の「成果展」出品枠を競う全4回のグループ展で、6人の作家によるグループCの展示会「完全なる仮説」が、五反田カオス*ラウンジアトリエで開催中。本展には、受講生たちが自らを「アーティスト・コレクティブ」と見立て、アーティスト同士の共同体についての持論や理想をぶつけた作品が集まったように見られた。創作における集団性というテーマを軸として、何人かの参加作家から本展の構造をさぐる。
 展示全体のステイトメントを担当したスズキナルヒロは、14点の油絵を出品し、人工芝を展示空間に敷き詰めた。ステイトメントによれば彼のテーマは「青春」だ。会場には絵画以外にも、彼の大学生時代に撮影された友人たちとはしゃぎ回る他愛もないビデオ映像や「青春のごちゃまぜ」と題された写真集が置かれている。本展全体のステイトメントによれば、スズキは「青春が青い理由を僕らはまだ知らない」とし、今年描いた11点の絵に彼が学生時代(2010~14年ごろ)に描いた3枚を合わせ、彼が言うところの「隣の青い芝生」の上に飾られている。そのほとんどが自画像か、女性像である作品にはある種の青臭い感情の発露のようなものが見られる。彼の描いた油絵は美術館に飾られた価値の決まった古典絵画とはまるで異なり、作家自信の未熟さや青臭さを堂々と晒した生のドキュメントとしてこそ真価を発揮するようだ。スズキが比較的自信のないものを集めたというトイレに飾られた8点は、親密で人には見せられない個人的な空間を形作っているように見える。
 ステイトメントに彼が書いた「あなたの愛すべき(事前的な)<性格>が(事後的な)<運命>」を決定するという言葉は示唆的だ。彼がここに青春として示したときに恥ずかしく、ときにみずみずしい感情の発露というのは共同体の潜在性というもののようだ。そう考えると彼の作品は会場の入り口に飾り、トイレへの導線を築いたほうがよかったかもしれない。なぜなら、その個人の内省的な<性格>とその材料たる青春とはおそらく共同体の材料になるからだ。「共同体」というテーマにおいては、スズキが大学生時代の友人たちと遊びまわる様子を撮りためた映像を見るとその青さとみずみずしさが多くの人に共感されるのではないだろうか。未熟な学生のファジーな集い、青春を糊代にした「つるむ」に彼にとっての共同体性の起源が「仮設」されていると感じた。
 ヤウンクル関根の写真作品は鳥取砂丘に集まるポケモンGOプレイヤーを一時的な共同体として撮り集めたもののようだ。ファジーな結びつきにより一時的に生成される関係を共同体と呼ぶことは興味深いが、同時に飾られていたサバイバルゲームの装備をした人々の写真との関係性を作家に尋ねることはできなかった。あるいは、この砂漠に集った人々を、公害や災害などで入れなくなってしまった場所や、紛争地帯、ダム建設で沈んでしまった村などに合成するとまた違った見え方がするかもしれないと夢想した。
 鷲尾蓉子は新宿中村屋のインドカリーを会場に展示。創業者中村愛蔵の娘が1918年にインドの独立運動かラス・ビハリ・ボースと結婚したことをきっかけに、同店は文人や芸術家の交流拠点であると同時にインド独立革命の活動家たちもかくまったとし、鷲尾はこの「インドカリー」を革命の二次創作物と呼んだ。発想自体は興味をひくが、鷲尾自身のバイト先である「中村屋」をなぜここで展示することに選んだのか、もう少し強いコンテクストへの導線がほしい。バイト先であるというファジーな結びつきそのものが、コレクティブという不特定多数の人が集まるコミュニティ作りのヒントにもなりうるかもしれない。
 モリエミによる、リンゴをモチーフとした連作絵画はニュートンに着想を得た上でのリンゴというモチーフ選びに面白みを感じたが、ステイトメントにコンテクストへの導線の弱さを感じた。下腹部をリンゴで隠した裸婦を描いた油彩画の周りにちりばめられたリンゴの小物は、生殖とは別の方法で作家が孕んだ子どもたちとしての生々しい作品群を連想させる。スズキの「青春」や鷲尾の「カレー」との連想が行き来できるようなコンテクスト付けも可能かと感じた。
 本展の中では田邊結佳(すべなつ)の作品が最も目を引いた。昨年6月に実家が熊本地震での被災を経験した田邊は、被災した実家に帰り仮設住宅に転居する家族のために実家の家財を片付けたという。階段を何度も上り下りしながら捨てる作業を繰り返すうちに、ものを所有することに嫌気がさし、ミニマリストとしての生活を目指すようになったという。しかし、実家で14歳から約15年ほど飼っていた亀を川に放さなくてはならなくなったことをきっかけにミニマリストとしての生活に限界を感じたという。会場には白い透明の素材で設えられたテントの中に蛍光灯と、完全食のセット、亀がいた水槽が並び、テントの横には亀が泳ぐ映像が流れる。災害という他律的な状況から、徹底してものを捨てることでスタイルの貫徹を求めるミニマリズムと出会い、飼い続けてきた亀に対する哀れみとノスタルジーからその自律を捨てる田邊の作品には人間性のエゴイズムと、それを完結できない弱さとの両極端な部分がかいま見える。ただ、本物の亀が会場にないことが惜しい。
 いずれの作品にも他律的な状況に振り回される中で、不特定多数の人間が集まる状況を描写した作品が目立ったように思う。ただそれはあくまで、どのような関係も「仮設」的にすぎず、それを持続させるための工夫、あるいは唯一秩序の模索というものは見られなかったように思う。しかし、本展が共同体構築のモデル模索であるということがすでに筆者の「仮説」に過ぎないのだが。
 唯一、「日本国憲法 横書きデザイン版」で今年のグッドデザイン賞を獲得した三上悠里の受賞作品とそれに関連したインスタレーションが共同体の「秩序」をテーマにしていたように思う。それが本展のコンセプトに沿うものであれば、この憲法が国家という仮説共同体をつなぎとめる、一時しのぎの秩序だと、アイロニカルな見方もできるかもしれない。「わかりやす」さや、理念=憲法の生々しい肉体化ともとれる質量化といったアプローチは、ある意味でその共同体秩序の解体可能性にも見えた。

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