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はたして貴方がたの考える「物語体験」とは、本当に物語体験だったのでしょうか?

「本当にそれで良かったのでしょうか?」

物語体験

令和四年が終わろうとしている中、実家へと続く特急電車の中でこの文章を書いています。膝のうえには塚本邦雄の「十二神将変」が読まれずにおかれています。雪国へ続く車両はまだ雪はほとんどなく、日本海側の街らしい灰色さでいっぱいです。
この「いま」、日本いや世界は、「物語体験」をウリとするエンターテインメントで満ち溢れています。

「物語体験」とは、なんと心躍るワードでしょう。
中学校、高校時代のほとんどを図書館、あるいはテレビゲーム、はたまた若い人たちにおいてはインターネットの中で過ごしてきた私達のような種族の生き物は、物語を食べて生きてきたことでしょう。
高校の図書室から5冊、市の図書館から5冊、だいたいマックスの10冊の本を家に持ち帰りながら、どうしても手元に欲しい本はなけなしのお小遣いで買い集めた学生時代。夢見がちで現実世界を生きづらい私達のような種族は、多くのフィクションの世界をふわふわと歩いて回っていました。
高校を卒業し、運のいいことに大都会大阪のまあ賢い大学へ進学した私は、ありがたいことに大学生になってからかなり生きやすくなりました。賢く、それでいて大人しいタイプの学生が多い環境で、私はすくすくと育ちました。
私達の中には、これまでたくさん食べてきた「物語」が栄養として根付いているのです。

「物語」とはなにか?

いったん、今回言及する「物語」は「フィクションの作品における話の筋」であると定義してしまいましょう。そうでないと話がややこしくなります。ややこやしくなるとは、これいかに? と思ってくださった方は私の過去のノート「リアル脱出ゲームのストーリーがつまらない理由」あたりを参照してください。

つまりは私達は物語として、「主人公が起承転結のなかでさまざまな苦難を乗り越えたり乗り越えなかったりしながら、成長したりしなかったりする架空の出来事」を好んで食べてきました。
そして物語を食べる際には、その「主人公その他のキャラクターたち」は読書(便宜上物語を摂取する方法を読書に限定しますが、ゲームでも漫画でも映画でもドラマでもネット掲示板でも同じです)する主体である「読者=私」が勝手に食べます。

「ねえねえ、勇者くん君のこと食べて(読んで)いい?」
なんて許可を取ることはありません。

あくまでも「読者」と「主人公」の関係は一方的です。

いやいや、三月ちゃん。君はおかしい。
という人がいるでしょう。

おっしゃるとおりです。
「読者」と「主人公」の関係が双方向であるエンターテインメントがあります。それが現在広義的に「物語体験をウリにするエンターテインメント」の正体のひとつの側面です。

物語体験をウリとするエンターテインメントたち

プレイヤーがどこまで物語に侵入できるのか。
どこまで柔軟なストーリーのハンドリングが行われるのか。
どこからが物語体験なのかは、きっと個人の感覚によるところが大きく、定義付けをすることは難しいでしょう。マルチエンディングのゲームはどうなのか、途中の選択肢が自由になる程度ならどうなのか、成功と失敗だけ後がならどうか。

そのあたりは過去の体験型演劇分類のノートでダラダラ書いたことが近いと思うので、そのあたりを参照ください。

ここ数年、数人規模のミニマムなスペース〜小劇場〜中劇場規模のエンターテインメントでホットな話題といえば、謎解きイベントとマーダーミステリー、あとはいまは元気ないけど人狼ゲーム、それにクトゥルフTRPG、もうアナログゲームのある程度とかも含めていいと思うのですが、そのあたりの盛衰(まだ衰はしていない)でしょう。
これらのエンターテインメントのほとんどは、リアル(現実世界)世界でのイベント・ゲームとして始まり、コアなアーリーアダプターたちがおおはしゃぎし、ファンを増やし、そしてYoutubeなどの配信を中心とする映像メディアまたはテレビで拡散され、オンラインセッションで広く遊ばれるようになり(その配信を見る人がいてまた増え、そしてその配信……)、そこからまたコアになった層がリアルのゲームに参加することになり層が増えていくという流れを踏んで流行しています。

グループYoutuberやVtuberが複数で配信するのに適した遊びは、そのへん見つかるとびゃっと広がりますね、この時代。

ここでひとつのポイントが出ました。
「グループ」です。

複数人で体験する物語体験/ひとりで体験する物語体験

とても当たり前のことを書きます。
「サイコーのメンバーで遊ぶ遊びは楽しいが、クソつまんねー社内の集まりの遊びはつまんねえ」
これって、感覚的に当たり前のことですよね?

いま、物語体験をウリにするエンターテインメントの多くは、グループ(複数人)で遊ぶものです。そうではなくても、GMとプレイヤーという2人が存在するケースがほとんどです。
「物語体験」が「現実世界の中で主人公(登場人物)体験をすること」とほぼほぼイコールである以上、自分以外の登場人物は当たり前にいるでしょう。

つまり、エンタメ作品に触れるとして、そのとき「誰といっしょに体験するか」で体験の価値そのものが変わってきてしまうのです。

考えてみてください。
最近「よかったな」とおもった体験型エンターテインメント。
それは純粋に作品が楽しかったのですか? それとも、一緒にやったメンバーとの遊びだったから楽しかったのですか?

もちろん、このあたりを自覚的に作品への評価・態度を決めている人も多いでしょうが、このあたりがあまりに無自覚な人が多いのも事実です。
そのむかし私が「謎解き系イベント勝手に大賞」をやっていたときも、ベストイベント投票理由に「最高のメンバーと超楽しく参加できました」みたいなことを書いている方が多かったです。別にそれを否定しているわけでは全然ないです。

つまりは、サイゼリヤも吉野家も大好きな恋人や友人と食べれば超最高に美味しく、三ツ星フレンチだってクソセクハラきもおじと食べるのであればゲロのようだ、ということです。そしてサイゼは最高です。サイゼでワイン飲みたい。

でも、それって複数人で遊ぶときのことだけなの?

「誰と遊ぶか」を「どんな状態で受容するか」に言い換えたとき、じつはこれは一人で楽しむ完全に変化する余地のないエンターテインメントであっても起きることです。

誰にでもあるだろう、失恋直後なら失恋ソングがやけに染みてくるとか、故郷を舞台にしたアニメはなんか共感しちゃうとか、個人的な事情が作品の受容に影響を与えます。
学生時代に読んだ名作と呼ばれる文学を、おとなになって読んでみたときに、全く違う感想を覚えたり、当時は気づかなかったところに目が行ったりすることもあります。

この年になってからベロベロに酔って見る映画デビルマンと、なけなしの1300円(だったか)を払って映画館で見た映画デビルマンは違うのです。学生時代に映画館でなけなしの金を払って映画デビルマンを見た人だけが私と同じ絶望を知れるのです。

それを踏まえて理想の物語体験はあるのか?

もう、あれだね。

「作者」になって、登場人物と一緒に物語の着地点がわからないまま走ることだね。

え? それは体験じゃない?

う〜ん、私の脳のデータをぎゅんぎゅん吸い上げてもろて、私が好きそうな世界をAIで自動生成してもろて、それをVR世界に再現してもろて、そこで遊ぶ感じが良かろ。ぼちぼち五感も再現されるやろし、まあそれがいちばんやろ。

結局は、エンターテインメントも好みによって細分化されて、それぞれのためにほぼオーダーメイドされる時代になるじゃろうね。

オーダーメイド物語体験倶楽部。

でもなあ。
わたしエンタメの好みが似てない友達とも遊びたいし。
そう思うとき、飲み会がいちばんさいこ〜じゃん!っておもう。

そういうかんじ。

三月ちゃんをいろんなイベントに出張させることが出来ます。ヤバそうなイベントに自分で行く気はないけど誰かに行ってきてほしいときに使ってください。