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No Expectations

 小学校に上がる前、両親が離婚した。わたしは母親に引き取られたが、母親には恋人がいて、家を留守にしがちだった。父親が会いに来ることもなかった。一度だけ、こっそりと父親に会いに行った。父親は再婚していて、わたしの知らない人たちと新生活を始めていた。
 大人になったら、絶対にしあわせな家庭を持ちたいと思った。自分の子供には、わたしのような想いはさせまいと。

 結婚願望が強かったわたしは、学生時代から結婚相手探しをしていた。でも、つきあうところまではいっても長続きはしなかった。成人してからつきあった男性は自分勝手なタイプが多く、どうやらわたしは男運が悪いようだと思った。

 25歳になった時、マリッジ・カウンセリングというのを受けると、
「育った家庭環境に問題があるのではないか」
 と指摘された。育った環境の影響で、しあわせになりたいと思っているのに、無意識に反対の方向へ進んでしまう心の癖があるのではないかと。

“気付く”ということは重要で、わたしは自分の悪い心の癖を矯正するよう努めた。そして今の夫に出会った。わたしは30歳で結婚をした。

 夫は優しく誠実で働き者だ。一途にわたしを想ってくれている。わたしも夫に尽くしている。まだ子宝には恵まれないけれど、結婚生活も2年目に入った。わたしは夢見ていたしあわせな家庭を手に入れたのだ。

 穏やかな日々が続いていた、そんな折だった。
 成人してから会っていない母親が亡くなったと訃報が届いた。持病もなかったのに、突然倒れて、そのまま亡くなったのだという。母親にはずっと恋人がいたが、籍は入れていなかったため、わたしが埋葬する役目をつとめなければならなかった。
 母親の恋人だったという男が、やたら親しげに接してきて、母親との思い出話を語り、「彼女はお酒が好きだったから供養のため」と言って、わたしと夫が遺品整理をしているそばで、昼からお酒を飲んでいた。我慢できずに、
「申し訳ありませんが、出て行ってくれませんか。後は夫と二人でやりますので」
 と素っ気ない口調で言うと、酔った足をもつれさせながら、男は出て行った。
 鬱陶しい。あんな男とつきあっていたという母親の存在が恥ずかしかった。胸の奥でざわざわと忘れていた感情が疼き始めた。
 母親が住んでいたこの家を処分しなければならないと夫と話し合っていたら、いきなりどこから聞いたのか、父親が現れた。子供の時以来の再会で、父親は年を重ねていたけれど、記憶の中の姿とあまり変わっていなかった。久しぶりに会う娘にはあまり関心がないようだった。神妙な面持ちで、
「焼香させてくれ」
 というので、家にあげた。簡素な手作りの仏壇の前で、父親は手を合わせていた。その後ろ姿を見ていたら、心の中の疼きが更に勢いを増してきた。

「俺、明日にでも不動産屋に行って、相談してみるよ」
 家へ帰る道すがら、夫が言った。優しい夫、いつもわたしのためを思ってくれる夫。
「余計なことしないで」
 口が勝手に動いていた。
「え?」
「実家の処分はわたしがするから。あなたは部外者だから」
 きつい口調のわたしに、夫はなにも言い返してこなかった。

 以来、夫とわたしの仲はぎくしゃくし始めた。夫が話しかけてきても、わたしは無視した。返すとしても、ひどくぶっきら棒な短い言葉だけだった。
「最近おかしいよ」
 夫は心配してくれた。
「悩みは聞くから」
 と言われても、
「大きなお世話」
 と返した。

 夫があまり家に帰らなくなってしまった。不機嫌な妻がいる家には寄り付きたくないのだろう。もしかして愛人でもできたのかもしれない。
 ある休日、
「話がある」
 と言われたので覚悟した。愛人の存在を告白されるのかも。
 夫は視線を落としたまま、ゆっくりと話し始めた。
「しばらく離れて暮らさないか」
 と。
 愛人でもできたのか、とわたしが訊くと、夫は大きなため息をついてから、首を振った。「そんなわけないだろう」
 夫はわたしの目を見つめて、話を続けた。
「一時的なものかと思って待っていた。でも君の態度は変わらない。話し合いたいと思っても、応じてくれない。もう君とどうやったらうまくやっていけるのかわからないんだ」
 目の前がぐらぐらした。冷や汗が出てくる。
「だから、しばらく離れて暮らした方がいいんじゃないかと思ったんだ。それしか方法が思いつかない。俺も耐えられなくなってきた」
 夫が、優しい夫が、やっとつかんだしあわせが、離れて行ってしまう。
「君はここに住んでいていいから。俺はしばらく安い賃貸に住む」
 夫はそう言って立ち上がった。背中を向けて歩き出す。部屋を出るドアに向かう。
 違う。
 追いかけそうになったが、身体が動かなかった。
 行かないで。
 言葉が出かけて、砕け散った。
 わたしを置いて行かないで。
 身体が冷たい。自分のものではないみたいに。頭の芯がしびれている。
 復讐なのだ。
 わたしは復讐している。両親に。あんたたちの娘は、こんなどうしようもない人間なんだよ。あんたたちの無責任さのせいで、こんな人間になっちまった。絶対に普通のしあわせなんてつかめない最悪の人間を、あんたたちは作っちまったんだ。まともな人間になんて、しあわせになんてなってやるもんか! そう両親にアピールすることがわたしの復讐だった。
 父親は既にわたしとは関係なく自分の家庭を築いている。母親はもうこの世にいない。両親はわたしの気持ちになんて気づいてもいない。わたしだって、もう子供ではない、立派な大人のはずなのに。逃れられない。この憎しみから。この哀しみから。もう期待しないと思いながら期待していた。愛情を欲していた。
 夫がドアを開けて出ていく。ゆっくりとドアが閉まっていく。

 ――たすけて。

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