もう戻れないレール、周期のはなし-時間というものについて


時間というものは本来まっすぐな1本の線のはずだ。私が生まれた時からすーっとはじまり、死にゆくときにさっと消える。不可逆的なものであり、それは流星のような、彗星のしっぽのようなそんなものではないかと思う。

しかし私たちはそれを地球が太陽の周りを1周する周期でまるめとり、わっかにする。その間に太陽が365回自転するらしい。

私たちはその365日に1年という単位を名前をつけ、それを制度にした。

線路の上をわたしたちはトロッコに乗ってぐるぐる回る、そして3月になると(地球は太陽のどんな関係を築いているのかしら)、トロッコを乗り換える。

それを積み重ねていくこと、進んでいく制度をつくった。1年生、2年生、3年生、次の制度の1年生、2年生・・。
私たちは時間が経つと新しいトロッコに乗り換える。わたしたちは時間が経つにつれて何かしら前進し、成長していなくてはならないというわけだ。

同じトロッコに乗っている人たちがいる。友達、同い年の友達というやつだ。
私たちはトロッコを乗りかえ、であった。
一緒にトロッコにのり、いろんなことを一緒に経験した。思い出がたくさんできた。
これからもずっと一緒だと思ってた。
でもどこかの3月でまた新しいトロッコに乗り換えるお別れの日がやってくる。
わたしたちは別れを惜しむように大きく手を降ってさようならと叫ぶ。

わたしは日本から飛び立つとき、そのトロッコを早めにひとり乗り換えるのを感じていた。
別のわっかに乗り換える、また地球が太陽のまわりを1周まわったら、私は同じ乗り場から次の同じ行き先のトロッコに乗るのだけれど、
そこに乗っている人たちはまた違う人々なのだ。

また1年後ね、そう笑顔で手を振りながら、もうこのトロッコには戻ってこれないことを感じていた。
まったく同じレールを通っても、それはまったく違うレールなのだ。

みんながあのトロッコを乗り変えるころ、わたしは目をつむりながら、心のなかでお別れを告げる。


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社会の中で同じ身分、時間軸を含む集団に対して仲間意識や同胞意識を抱き、それが自分のアイデンティティを支える要素になっている。
いろいろ迷いながらも選択を続けた結果、自分と全く同じ人が居なくなりつつある。
どんどん乗り換えて一人ぼっちになって、何もない駅で次の長距離列車を待ってる感じだなと思い、そういえば留学に行く時に同じようなことを感じたなと思い、当時のメモを見つけてきました。

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