「のび太さんのエッチ」は女性差別なのか? -法学の視点から考える

巷で度々論争になる「のび太さんのエッチ問題」(と名付けて良いのだろうか)。

名作ドラえもんにしばしば登場する、お約束シーンである。どこでもドアを使ってのび太が、ヒロイン・しずかちゃんが入浴中のお風呂に乱入してしまい、「きゃー!のび太さんのエッチ!」と水をかけられる。こういったシーンがドラえもんでは定番化しているのだが、この一連の流れに対し、フェミニズムの観点から懸念がされている。

「幼い頃から、《女性の裸を過失ではあるが男性が見てしまうが、『もう、エッチ!』で済まされる(そして覗きを結局繰り返す)》シーンをずっと見ていると、これは本来やってはいけないことなんだと子供が分からないまま成長してしまう」とか、「女性軽視の気持ちが根付いてしまう」とか、いわゆるセクハラを是正しているように受け取れてしまうシーンであることが指摘されている。

これに対し、馬鹿馬鹿しい、ただのアニメじゃないかとフェミニストの懸念を一蹴する意見も多い。

私は以前のノートでこの論争について触れたのだが、このたび独立したnoteを改めて書いてみたい。

私は社会学に明るくないので、フィクションが児童に及ぼす影響の程度だったり、認知の歪みがどのように生み出されるかだったりに関しては分からない。

そのため今回は、ジェンダー法学の観点から「のび太さんのエッチ問題」について少し検討をしてみようと思う。

国際人権法の観点から見た「のび太さんのエッチ」

とか書くと、めちゃくちゃ真剣にめちゃくちゃアホなことを検討しているように見えてしまいますね。

私の専攻は法学の中でも国際人権法なので、今回は国際人権法の観点から検討をする。

国際人権法とは、とても簡潔に説明すると、人権に関わる国際条約自体と、世界に蔓延る人権侵害(に対して条約を適用させてどのように解決するか)を研究する学問…であろうか。

今回わたしが取り上げるのは、女性差別撤廃条約、通称CEDAWである。日本も批准をしているので、もちろん日本に対して拘束力を持つ。なおかつ日本は各条約に対して一般的受容の体制を採用しているため、日本はCEDAWの内容を遵守・実施する義務があり、またCEDAWは国内法としても効力を持つ。ちなみに条約の優位性であるが、憲法>条約>法令が通説であるため、日本の国内法令に優位する。

そしてこのCEDAW第1条を見てみると、「この条約の適用上、『女子に対する差別』とは、性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう」とある。

これが「女性差別」の概念である。

次に、CEDAW委員会が出した一般的勧告19号「女性に対する暴力」なるものを見てみたい。一般的勧告(もしくは一般的意見)とは、条約委員会が各国の条約実施の状況に鑑み、条約の解釈や適用に関して出す意見書のようなものである。通常これに拘束力はないが、CEDAWの一般的勧告19号に関しては国家による遵守が高く評価されており、もはや慣習国際法の地位を得ていると見なす研究者も多々いる。

この一般的勧告19号のパラグラフ6を見てみると、「条約は第1条において女性に対する差別を定義している。この差別の定義は、ジェンダーに基づく暴力、すなわち、女性であることを理由として女性に対して向けられる暴力、 あるいは、女性に対して過度に影響を及ぼす暴力を含む。それは、身体的、精神的、又は性的危害もしくは苦痛を加える行為、かかる行為の威嚇、強制、及び、その他の自由の剥奪を含む。ジェンダーに基づく暴力は、条約の特定の規定に違反するであろう(こ れらの規定が、暴力について明示的に述べているか否かを問わない)」とある。

これを読み換えると、「性的危害」は「ジェンダーに基づく暴力」であり、CEDAWが定める「女性差別」であることが分かる。

女性に性的加害を加えることは、ただの犯罪や暴力、嫌がらせ、冗談では済まず、「女性差別」に値するということを、CEDAWは規定している。

「お風呂を覗く」という行為、すなわち個人が全裸でいるパーソナルスペースに踏み込むという行為は、性的危害であるとわたしは認識している。それが未成年がすることであっても、過失であってもだ(のび太の行為が本当に過失かは分からないが)。それこそ刑法の観点からいうと罪には問われないだろうが、国際人権法の観点からは、「お風呂を覗く行為」は人権侵害であるということが分かる。それが国際社会のスタンダードである。

それでは、理論的には、わたしたちが見せられているシーンは「しずかちゃんが女性差別を受けながら、『きゃー、もう!』で流し、それをギャグとして消化しているシーン」であると言い換えることができるだろう。

つまり「のび太さんのエッチ」シーンが茶の間に流れるということは、最近話題になっているAマッソのネタとか、金属バットのネタが茶の間に流れると同じことであるといえるとわたしは思うんですけど、違うだろうか。

もちろんしずかちゃんはフィクションの人間であるから、直接な被害者はいない。わたしはしずかちゃんが現実世界で人権を持っているとは言わないし、フィクションの中で彼女が人権侵害を受けているとしても彼女を救済することはできない。

ただ、そのように女性差別を受けて人権侵害をされている女性の姿を、当たり前のように幼い頃から毎週人々が見て育つとなると…これがどうなるかについては、社会学の領域なので私には分からないが、まあ人権意識は歪むのではないかと推測する。

なお、このような論に対し、しばしば「それでは殺人や暴行などのシーンも子供に悪影響かもしれないが、それは無視なのか。フィクションの中で『悪いこと』は色々と行われるが、なぜ女性に対する性的危害だけが槍玉にあげられなければならないんだ」という意見を聞く。

ここで区別したいのは、その「悪いこと」が差別かどうかである。殺人や暴行は犯罪であるが、差別であろうか。もちろん被害者の生存権や、遺族の様々な権利侵害は行われているかもしれない。だけど、少なくとも殺人や暴行は差別ではない(ヘイトクライムは別として)。

私が今回懸念していることは、「女性差別」が「茶化されて(すなわち是正されて)」、茶の間に流れることである。

殺人や暴行のシーンが人々に及ぼす影響もあるのだろうが、性質が違うことであるし、それはそれで対処する必要があるだろう。ただ今回の話には関わりがあるようで、ないというわけである。

また、わたしはドラえもんが国際人権法によってただちに規制されるべきであると言うわけでもない(そもそもドラえもんを作成したのは私人であり、私人が国際人権法を違反するという概念はない。それを放送することに国家がどれほど関わっているのか、私は放送法とかよく知らないのでそこらへんに関して踏み込むことはできない)。

ただ言いたいことは、たかが「のび太さんのエッチ問題」、されど「のび太さんのエッチ問題」だということだ。

国際人権法の観点から考えると「のび太さんのエッチ問題」は差別問題であり、差別的描写を国民が抵抗なく受け入れ、「大した問題ではない」として処理されることが懸念されることは、そう的外れなことではないだろう。ここだけ見ると話がいくらなんでも飛躍しすぎだと思われるだろうが、ロジック的にはそうなのである。

「大げさだ」と思うかもしれないが、「大げさ」という言葉はあらゆる差別問題や人権侵害を見えないものにしてしまう、恐ろしい言葉だ。

国際人権法を学ぶ身として、日本社会はあまりにも人権意識が希薄であるとひしひし感じる。

女性差別に限らず、このところの外国籍の人の差別、ホームレス状態にある人の差別…

社会学は「当たり前を疑う」ことをベースにしていると、社会学を研究する知り合いから聞いた。人権学もそうである。世の中の当たり前を疑い、世の中の差別問題や人権侵害が「だってそれが自分が生まれた時から当たり前だから」で終わらない社会になることを願う。

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眞理

大学院で法学(国際人権法)とジェンダーを学ぶ修士2年生。ジェンダー関連の問題に関し、キーッ!となったときに色々書きなぐる用のnoteです。
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