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大学時代のくすぶってる自分へ -あの失敗があったから-

3年ほど前、あるイベントで大学2年生の方に自分の学生時代から就職、仕事のおもしろさについて話させてもらったことがある。一番お話したいことは海外を相手にした仕事の面白さの部分だったのに、一通りお話が終わった後で質問が集中したのは私の失敗ー「不完全燃焼だった大学時代」の部分だった。

消極的な志望理由

「失敗」というと思い出す大学時代。私の大学時代は、「不完全燃焼」の一言だった。

 最初から、「XXはしたくない」を避けることありきの進学だったのかもしれない。「厳しく束縛が激しい両親の家にこれ以上いたくない」、「裕福な同級生に囲まれて金銭的に引け目を感じるのがいやだ」、「高校時代の交友関係を引きずりたくない」。進学先を選んだ大きな理由は、そんな私の消極的な条件を満たすからだったような気がする。もちろん、聞こえのいい「学びたいこと」「やってみたいこと」は用意しての進学だった。そうでなければ、わざわざ関西の片田舎から東京の大学に進学は許されない。でも今考えると、それは他所から借りてきた「学びたいこと」「やってみたいこと」をスポンサーである親が納得が行くコンテクストに並び替えてプレゼンテーションの型にまとめたようなもので、上にあげた「XXしたくない」の気持ちの方がよほど切実だったのだと思う。それが不完全燃焼の大きな理由だったのかもしれない。

大学時代どう不完全燃焼だったのか

新しい場所、誰も知らない人の中に放り込まれた。自分でそういう場所を求めて進学したはずだけど、ものすごい不安感と心細さだった。根無し草として過ごしていられるほど強くない、何かに所属しなければ、そうやって居場所を探すものの、本当に自分のやりたいこととはうまくめぐり合えなかった。

東京という場所柄もあるのか、女子校育ちのせいなのか、自分は周りから浮いていて、空気が読めていなかったようで、それを指摘されることも多かった。大学は無限に「空気」を読み続けなければいけない空間のように感じた。ざっくばらんに話しているフリをするものの、本当に好きなこととか、感じていることを口に出せることがほとんどなかった。何より自分だからこそできること、やりたいこと、得意なことが何一つ見つからず、代替のきく存在、何者でもない自分というのを常に突きつけられているように感じた。

結局は、大学生という自由な身分でありながら自分がやりたいと思うことをなす場にできなかったということ。自分の中が空っぽであると、高校のように決まった目標やマイルストーンがない大学は生きづらかった。

変化のきっかけ、留学・就職

不完全燃焼状態に少し変化が生じたのは、留学したことによってだった。と言っても、留学先で勉学に励み、本当にやりたいことを見つけて・・・というビューティフルストーリーではない。実際には英語を覚えるだけでもおぼつかなく、とても実り多いとは言えない留学生活だった。そんな中唯一良かったのは、アメリカ人と、いろんな国からくる留学生との中で揉まれたことで、「知らない人とは言っても日本語が通じるんだから、なんかしゃべることくらいあるやろ」と吹っ切れたことだ。本当の自分を出してはいけない。空気を読んで、周りに合わせて・・・・とビクビクしていたのが、変わったやつだと思われてもいいから本当に思っていることを構えずに口に出せるようになった。

就職したことも大きな転機だった。新人として配属された職場は旧態依然としていて、今のお若い方に聞かれたら「そんなヤバイ職場なんでやめなかったんですか!?」と言われるようなエピソードも多々あったものの(新入社員の私を受け入れてくれた勤務先および当時の職場の名誉のために付け加えておくと、私の就職当時、うちの会社だけではない結構多くの職場が「ヤバイ職場」だった。「働き方改革」という言葉は当時まだ一般的ではなく。働いている人の満足度は重要視されないのが普通だった。少子化、団塊の世代のリタイアの影響を受ける直前だったため企業側が採用に苦労するということもなく、新人には苦労させて当然という風潮は一般的だった。)私は(当時は文句ばかり言っていたけど)結構楽しく過ごしてしまったのだ。

理由は明快で、その職場では「自分らしさ」というものがある程度評価されたからだ。空気の読み合いのように感じられた大学と比較して、当時私が配属された職場は「空気が読めなくてもいい、如才なく、女の子らしく振る舞えなくてもいい、とにかく元気で、英語さえしゃべってくれれば!!」というところだった。幸い留学してたおかげで英語もそれなりに話せた。英語が話せる人なんてごまんといる、代えはいくらでもいるのだけど、それでも自分らしい能力が生かされる場にいる、というのは自分にとって生きやすかった。

「誰とも違う自分ならではの強みや特徴を生かして、何かに貢献出来ること」それが私が一番求めていたことだ。不完全燃焼だった大学時代の自分を振り返って、今ならそうわかる。

失敗は、本当の自分を理解するきっかけ

今も時々考える。もし自分が大学に進学した時点で、能動的に学生時代をエンジョイできる自分だったらどんなによかっただろう。東京という地の利も活かして、どれほど多くのことを得ることができただろうか。

でも、それを後悔する気持ちはあまりない。なぜなら、大学に進学した時点では、能動的に学生時代をエンジョイするために必要な自己理解がほとんどできていなかった、ということもよくわかっているからだ。そして、失敗した経験は「自分は本来どういう人間なのか」ということを考える上でとても貴重だった、ということも。3年前の学生さん向けセミナーにおいて、私のの失敗談に質問が集中した、というのも今なら納得できる。失敗には、成功以上に学ぶべきことが詰まっているから。みんな本能的に失敗から学びたくなるのだろう。

しかし同時に感じたのは、聞いている学生さんの「自分の大学時代は絶対に不完全燃焼に終わらせてはならない」という切迫感だ。それに私は少し危うさを感じる。

私が大学時代を過ごした2000年代と比べて2021年の今は破格にデジタル化が進んでいる。全ての選択肢はアルゴリズムによって最適化され、世の中には充実した人生を送るための情報で溢れている。自分の生活がどれくらい充実しているのかはソーシャルメディア上で簡単に他人と比較できてしまう。そんな中では、人生の全ての選択において「絶対に失敗してはいけない。」という強迫観念にとらわれやすいのではないか。(ちなみに、私の大学時代、iPhoneはまだ販売されておらずFacebook、Instagram、Twitterは一般的ではなかった。みんなmixiというソーシャルネットワーキングサイトに超素朴で等身大な日記を書いていたのだ。)

もちろん、大学時代が不完全燃焼に終わるよりは完全燃焼できる充実した大学時代の方が良いに違いない。ただ、「全ての選択肢を絶対に間違ってはいけない」と考えて生きることは恐怖を産むし、何より「失敗しない」ことは「自分は本来どういう人間なのか」ということを知る上で遠回りをさせる。自分もそうだったからわかるのだが、「失敗の選択肢」を選んでしまったが最後、その後ずっと失敗の沼に沈められるような気がしてしまう。でも人生にそんな一本道はない。ある局面で例え失敗してしまっても、それがまた別の扉を開くこともあるのだ。


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