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日常。

2021年も2カ月が過ぎようとしている。
緊急事態の日常。
コロナ一周年。今年もまた、春がくるんだなぁ。

つくづく、コロナはわたしを無口にさせる。
年齢、エリア、健康状態、職業、価値観、立場、それぞれの要素が複雑に絡み合い、いろんな考え方が存在する。間違いも正解もない。
そんななかに、わたしの考えなど何の意味があるのだろう。
結果、自分と近い考え方、行動の人とばかり会っている。居心地の良さを感じる一方で、時々、停滞感やマンネリ感に溺れそうにもなる。
停滞、世界の狭さ、偏り、わたしが苦手なもの。

この息苦しさから逃れるように、わたしの足は映画館に向かう。
今年に入って、6本の新作映画を観た。
とても感動的なものもあれば、あまり面白くないなと思ったものもあった。
コロナのない作り物の世界で、2時間、わたしは別の人生を生きる。

1月29日には同時に複数の話題作が公開されて、その週末の映画館は本当に自粛中?と思うくらい、多くの人で混雑していた。
誰かが、自粛中に映画なんて観るべきではない、クラスターが起こったらどうするんだ、と怒っている顔が浮かんだ。誰かって、誰だろう。緑色のあの人だろうか。
映画を観るのは気の緩みなのだろうか。どんな行動をしても、いまは攻められている気になる。
出演俳優たちが、申し訳なさそうに映画のPRをする。作り手たちにとって、映画は人生だ。
スクリーンに「映画は必要至急だ」という宣伝が流れた。

森会長の辞任のニュースが世間をにぎわせている。
例の差別発言は、彼の立場で絶対に言ってはいけなかったことだ。
でも、そのあとの集団リンチのような世論にも、そら恐ろしいものを感じる。
差別意識を微塵も持っていない人なんて、いるのだろうか。
多様性ってなんだろう。昭和の感性は、多様性の中には入らないのか。
(彼の発言そのものを擁護したいわけではない)

昨日、深夜のEテレで、選択的夫婦別姓の特集が放送されていた。
夫婦別姓を望む若い夫婦の親(70代)が、「夫婦は同じ名字を名乗るべき」と言った。
もう2年以上、説得を続けているという。
番組では、1996年の選択的夫婦別姓導入の法案に強く反対したという亀井静香元衆議院議員に、若い夫婦が突撃する場面もあった。
亀井氏は、「夫婦は身も心も一つになるべきだ」と言った。
「そこまで言うなら、結婚しなきゃいいじゃない」
「国家の保護を求めながら、一切国家の行為に対して協力をしないというのは、得手勝手って言うんだよ!」
「あなた方のために、他の国民がおるわけじゃないんだよ」

絶望的な溝。平行線をたどる議論。
変化への声を上げること、相入れない価値観の人と議論を続けることは、とてもパワーのいることだ。そういう人たちのおかげで、時代は変わっていくのだろう。

ただ、今の70代、80代の気持ちは、当人にしか分からない。
責められるべきは、個人の価値観だろうか、とも思う。
その価値観は、社会が作ったものではないのか。
私が一生懸命生きて、70代、80代になったとき、「それはもう古いよ」「時代が違うよ」って言われたら、悲しいだろうなと思う。
私も簡単に「時代が違う」って言いそうになるけど、そこにはその人が生きてきた人生すべてを否定するようなニュアンスがあると感じる。
ある意味、とても都合よく相手を黙らせることのできる言葉だ。「時代」って何だろね。
今がその時代とやらの過渡期だとしたら、わたしは、古い価値観と新しい価値観の、ちょうど狭間にいる。宙ぶらりん。

コロナ禍で、一人の韓国人男性と出会った。
日本語がまったく話せない状態で日本に来て、10年経ったいま、とても流暢に日本語を話し、日本語のおもしろいLINEスタンプを送ってくる。
先日、新大久保の焼き肉屋さんに行った。
店員さんに話しかけるときだけ、彼は韓国語になった。
2年間の徴兵制度のこと、社会に戻ったときの衝撃、彼が生まれ育った光州という街のこと、そこで起こった光州事件のこと、彼がずっと好きだった女性のこと、その恋が破れたときのこと。
いろんな話を聞かせてくれた。
閉じていた世界が、少し広がった気がした。
心にふわっと、新しい風が吹いた。

そんな、日常。
今日も、体温を測る顔認証モニターに、背がとどかなかった。

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