見出し画像

1秒先の彼

はい。
宮藤官九郎さんの脚本作品です。
ホントはね、あんまり期待してなかったんです。
でも、今はその気持ちはなかったことにしたいです。
めちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃ、とんでもなくいい作品でした!

ハードルが高かった「京都弁」

なぜ期待していなかったかというと、いちばん大きな理由は舞台が「京都」だからです。
わたしは生まれも育ちも現在住んでいるところも京都。両親も含めて現在まで京都以外で暮らしたことのない生粋の(たぶん)京都人です。
京都は昔から映画もドラマも芝居もたくさんの舞台になっている街ですが、わたしは「京都の人が作った京都の作品」も、「京都の人以外が作った京都の作品」も、どっちも苦手です。

前者は、京都アピールが強すぎるからです。
アピールする必要はないと思うんです。だって京都の人が作ったら勝手に京都の作品になるのに。なぜかみんなアピールしたがる。
これがすごく苦手なんです。

後者は単純。言葉が違う。本当に申し訳ないんだけど、「それは京都弁ではない」というものが多い。
京都弁ってすごく難しいんです。
世間で認識されてる京都弁って、「〜どす」とか「ぶぶづけ〜」とかそんなんでしょ。
「ぶぷづけ」なんか明治生まれのおばあちゃんでも言いませんでしたよ。
ちゃんと「お茶漬け」って言ってました。
あとはね、大阪弁と京都弁を混同してる感じ。
実はこれ、大人気だった大河ドラマでもありました。
京都の公家役を、大阪の芸人さんがそれはそれはバリバリの大阪弁で演じていました。
これは聞いてられなかったです。

そういうね、勝手な京都イメージで花街の舞妓ちゃんしか喋らないような京都弁を殊更強調するか、関西の言葉をちゃんと理解して使い分けてないか、どちらかの作品が多くて、京都が舞台というだけであんまり観る気にならないというのが、正直な感想でした。

あ、前置きがめちゃくちゃ長くなりました。

でもね、今作は「脚本・宮藤官九郎」だったんです。
くんくが京都⁈とめちゃくちゃビックリしました。この人は特に京都に興味はないだろうと思っていたからです。(「舞妓Haaaan!」がありましたけどね、あれはもう京都ありきの作品なので。)
でも、これは嫌がってないで観に行かなあかん!となったんです。
くんくが描く京都はどんな街だろうって。
それもちょっと楽しみでした。

岡田将生くんの「ヒロイン力」

岡田くん演じるハジメくん。正直言ってこんな話し方する京都の子はいません。
ちょっと会ってみたい気もするけど、たぶんいないと思います。
もうちょっと違う嫌味が出るんです。ホントの京都の子ならww

実は宣伝動画で切り取られていた岡田くんの京都弁が、わたしの期待を薄れさせていたのもあるんです。
でもね、序盤にこのデフォルメされたハジメくんの京都弁が延々と続くうちに、不思議とハジメくんという人の魅力に惹き込まれていくんです。
これがくんくの言うところの「岡田将生のヒロイン力」なんでしょうね! 
おどろいてしまいました。

そして、そのちょっとヘンテコなハジメくんの京都弁をうま〜く包み込んでいたのが、脇をガッチリ固めた関西ネイティブ陣の京都弁でした。
特に地元宇治出身の羽野晶紀ちゃんと奈良出身の加藤雅也さん、言わずもがなのDJ役笑福亭笑瓶さん、それから密かに、妹役の片山友希さんのネイティブ京都弁もめちゃくちゃよかった!
あとはポツポツといいアジで呟く、関西出身の清原果耶ちゃんの話し方もよかったなぁ。

これらがハジメくんのデフォルメ京都弁を、なんかわからんけど自然なものに見せていたんです。
ほんまになんかわからんけどそうなんです。
素晴らしいと思います。
こんな京都弁なら、聞いていても全然いやな感じがしない!
これは新しい発見でした。

さてここからはネタバレとなっていきます。



宮藤官九郎が描くとこうなる

今回わたしがこのnoteにいちばん書きたいことは、この映画もまた「家族の物語」だったんだよということです!

作中でいちばん大きなウェイトを占める家族は、蒸発しちゃったお父さんを持つ皇家です。

お父さんが帰ってこなくて、そのまま受験も失敗して、不本意なまま郵便局に就職したハジメくん。
彼は、いつかもっと違う自分になれるはず、今はお父ちゃんがいなくなったから、ちょっとそのことを考えるのを中断してるだけ。と思い込んでいます。

だけど時は流れていて、ダブルパピコに喜んでいた妹はなんかすごいギャルになり、ハジメも30になってしまった。
1秒早いはずのハジメくんは、実は時間にどんどん置いて行かれているんです。

でもここで素敵なのは、ハジメが妹と疎遠にはならず、その彼氏と3人で暮らしていることです。
このエピソード、オリジナルにもあるのかな?とてもいいですよね。
すっかりギャルになり、どう見てもバカップルな妹とその彼氏なのに、お兄ちゃんと同居してるんです。
その上その妹は、まぁまぁ頻繁に実家のお母さんと連絡をとっている。

このさりげなく家族を繋いでおく描写、家族を描かせたら右に出る者がいない、宮藤官九郎の真骨頂だと思うのです。
お母さんだけそのままずっと宇治から出てないのも、お父さんとの繋がりを残しておくため。
でも、ここでとてもいいのは、お母さんも全然深刻じゃないことです。
皇家のこのちょっと抜けた感じがとてもいいなと思います。

レイカちゃんの「家族」の描き方

そして、レイカちゃんです。
彼女は家族を一瞬にしてなくしてしまったけれど、心の中でずーっと自分を支えてくれていたものがある。
亡くなったお父さんの形見のカメラ。
そして、幼いときのハジメくんとの思い出。
ひとりぼっちなはずのレイカちゃんが、何かに守られて生きてるんだろうなと思えるのは、レイカちゃんの中に、こんな風に見えない「家族」の存在があったからなんだろうなと思います。

レイカという女の子

レイカのキャラクターを、気弱でどんくさいだけの女の子として描いてないことが、本当に素晴らしいと思います。
それに加えて、あの不思議な佇まいを表現できたのは、役を生きたのが清原果耶ちゃんだったからではないでしょうか。
家族をなくした不幸な過去を持つ子ではなく、心の中で、カメラとハジメという「家族」がいて、それにピーンと支えられているレイカちゃん。
ここを表現できたのは、彼女だからこそだとわたしは思います。

他にも描かれた「家族」の姿

この作品にはまだ他にも「家族」が登場します。
荒川くん演じる「釈迦牟尼仏(みくるべ)憲」(これヨミより漢字の字数の方が多い!)
名字は家族の象徴。
この長〜い名字によって、これまでにいろんな思いをしてきたことが描かれています。
こんな風にひっそりと、だけど本人にとっては結構深刻な家族の物語が、さりげなく綴られているところがホントすきです。

「恋愛」要素がほとんどない。でもゼロでもない。

個人的にここもとても好きだったんです。
インタビューで、宮藤・山下コンビはこんな風に話していました。


宮藤…もうそろそろ、映画を観る人たちが、そんなにキュンキュンしなくてもよくなってきてるんじゃないかな、とも最近思うんです(笑)。
山下…(笑)。
宮藤…というよりも、みんな「胸キュン」以外のものも求めているんじゃないかな、と。男女のキャラクターを反転させる設定になった時点で、それはちょっと考えましたね。

くわしくは↓のインタビューをどうぞ。

この作品がとても読後感爽やかなのは、この「胸キュン」がないから。
別に恋愛要素がなくても、物語って綴れるんですよ。
「胸キュン」以外を求めていた人、ここにいましたよ!


「市井の人々」をこそ描く

また、こんなインタビュー記事も見つけました。
ちょっと長いですがお読みください。


—先ほど「京都時間」というお話もありましたが、本作は、オリジナル版も含めて「時間」が重要なテーマになっていますよね。それは物語の設定自体にも大きく関わっており、岡田さん演じる「ハジメ」は普通の人よりも1秒早く生きていて、清原さん演じる「レイカ」は、逆に1秒遅い人生を生きている。例えば、つねに人よりワンテンポ早いハジメは、記念撮影で必ず目をつぶってしまう。一方、つねに人よりワンテンポ遅いレイカは、写真部に所属しているのにもかかわらず、シャッターチャンスを逃し続けている。この「時間」をめぐる差異が、「ハジメが目覚めたら、日曜日がなくなっていた」という本作における最大の謎へと繋がっています。

宮藤:その謎が作品のキモであり、面白いところなんですけれど、同時に、自分にとってはオリジナル版を初めて見た時から引っかかり続けていたところでもあって。というのは、「時間」に対しての在り様の異なる2人の主人公が物語の中心にいるわけですが、彼らの間には、早く生きているわけでもなければ、遅く生きているわけでもない「ノーマルな人」というのも存在するわけです。普通に生活している、いわゆる「市井の人々」という存在が。オリジナル版は、お客さんに余計なことを考えさせない工夫がすごく巧みで、構成や演出が個性的かつ上手いから、冷静に考えだすと気になってしまうそうした部分も、映画的マジックによってファンタジックなものへと昇華されているんですよね。でも、どうしてもそこに引っかかってしまったぼくは、主人公2人を中心に起こる「1日が消えてしまう」というビッグイベントの背景にじつは存在し、でも物語的には別段必要のない一般の人々を描くシーンをあえて追加したんです。

こちらの記事です↓

この、主人公以外にも「普通に生きている人」がたくさんいる、という考え方、本当に好きです。
くんくの作品はいつも、主人公のためだけに存在しているキャラクターというのがいないんです。
全員がその世界を「生きている」んです。
だからこそ、この作品で描かれている、そういう「普通の」人たちがいい「抜け」具合を生んでいて、この不思議な物語をただのファンタジーで終わらせなかったのです。
そして、この「抜け感」こそが、観る側にリアリティを与え、物語の世界に自然に誘っていく秘密だったのではないだろうかとわたしは思っています。

363日後の絶妙さ

ラストシーン。
ここ「363日後」なんですね。
ハジメくんがなくした1日の次の日から363日後。
あの日からちょうど1年になるまであと1日。
この絶妙さにしびれます。
そして、レイカちゃんはどうなったのかわからないし、ハジメくんはどうやら舞鶴にいるんです。

え?舞鶴??
あれだけ「洛中」にこだわっていたハジメくんが、舞鶴にいるなんて!
京都の人の言い方で言うと「都落ち」というやつです。
普通の顔をしているけど、彼にとっては一大事ですよね。

ちなみに劇中、平安神宮から舞鶴にバスが向かうシーンで、釈迦牟尼仏さんが「3時間はかかるよ」と言いますが、その通り、舞鶴ってめちゃくちゃ遠いんです。(当然本当は配達バイクで行ける距離ではないんですw)

いったいこの1年で彼に何が起きたのか。
ハジメくんの時計は動き出したんです。
人より1秒早いと言われながら、時間に置いて行かれていたハジメくんが、大切な1日をなくしたことで時計を進めることができた。
それができたのはレイカちゃんの存在です。
だからこそ、彼は舞鶴に行ったのです。
これまでの自分を支えていたものを捨てて、レイカちゃんとの時間を取り戻しに行ったのです。

やっぱり「ヒロイン」だった岡田将生

そしてラストシーン。
傷を負ったレイカちゃんが差し出した「パピコ」と、それを受け取り涙ぐむハジメくん。
ここいいですよね。
やっぱりレイカちゃんは強い子だったし、ハジメくんはヒロインだったなと納得できるステキなシーンです。
ハジメくんは、1年経ったここでようやくレイカちゃんとの時間を取り戻しただけでなく、ずーっと止まっていたお父さんとの時間も取り戻したのです。
「パピコ買ってきて」と自分が頼んだからだと責めていた日々が、お父さんからのパピコを受け取ってようやく動き出したのです。

ホントに宮藤官九郎という人はこういう物語が書ける人なんです。
彼が「天才」と言われる所以はこれですよね。
だって普通はパピコでこんなに泣けないでしょう。

この映画も読後がとても爽やかで、それだけでなく帰り道はずーっとニコニコしていました、わたし。

ほぼ同時公開だった巨匠のアニメみたいに、考えさせられる映画ではないけど、こんな風に誰かの胸に爽やかに吹き抜けていく映画があっていい。
いやあるべきです。

わたしはそう断言します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?