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不適切にもほどがある!

クドさん、地上波では久しぶりの連ドラ。
ファンとしては、去年の「離婚しようよ」「季節のない街」、そして今作と連ドラが続いて本当に嬉しい2024年のスタートになりました。

はじめは「俺の家の話」のときみたいに1話ごとにnoteを書こうかと思ってたんだけど、1話を見たときに展開が読めなさすぎて止めました。
最終回まで放送が終わったところで、満を持して感想を書こうと思います。

描くのはいつも「家族」

「俺の家の話」も「離婚しようよ」も「季節のない街」も全部そうだったから、きっと今回もと思っていました。
くんくの物語は「家族」の物語が本当に多いのです。
「不適切〜」は窮屈な令和を昭和が斬る!とか、あらゆる社会問題をクドカン流で描く!とか、世間のこのドラマの見立てはそんな感じでしょうか。
だから、時々ハレーションも起きてましたね。
勝手に怒って勝手に批判してるの、あれも市郎に斬られてしまえ!って、わたしは思っていましたw

でもね、いろんなことをそぎ落としてゆっくり見つめ直したら、そこに残っているのは多様な「家族」の在り方だったんです。

市郎と純子とゆり、サカエとキヨシと井上、渚とゆずる、ムッチと秋津、渚とまちゃとと谷口、安森とその父母…
書き出したらどんどん出てきます。
でも、この家族たち。
どの家族がいいとか悪いとか、そんな視点で描かれてませんよね。
わたしがくんくの作品の好きなところはここなんです。

世の中にはいろんな人がいる

共感する相手は観る人によって違います。
彼の物語が見せてくれる人たちって、自分の環境では出会わなかったような人たちもたくさんいます。
でも、その人たちみんなが物語の中で文字通り本当に生き生きと生きている、
これがフィクションなのかと驚くくらい。
今回で言ったら、あの川沿いのアパートに本当に小川家があって、市郎と純子が今日もケンカしてるよねって、何の疑いもなく思えてしまう。
これが、宮藤官九郎のストーリーテリングの力なんです。
そして、どの人たちもみんなちょっと変。
どこにも模範的な家族なんていないのです。
だって、わたしたちの周りもみんなそうだからです。
みんなちょっと変で、真面目で、バカで、めんどくさくて、ずるい。
変だけど、みんなそれぞれに愛嬌があって愛しくなっちゃう。
まるで自分や自分の身近な出来事のように感じてしまう。
だからみんなふてほどが好きだったんじゃないかなと思います。

そしてここからが真骨頂

本当に生きている人たちだから、間違ったことも言うし、相手が傷つくこともしてしまう。
そりゃそうだ。
わたしたちみんな、誰かに悪いことしてやろうと思って生きているわけじゃない。
だけど、しまった…やってしまった…っていうことあるじゃない?
それこそが人間。
それこそが生活なんですよ。

宮藤官九郎がいつも必ず描いているのはこういう世界です。

純子が渚に言った言葉。
「自分のことしか考えられないときある」
この純子の話し方、絶妙でしたね。
河合優実ちゃん、本当に天才だと思います。
あの言葉が渚の溜飲を下げたのも、それは純子の言葉だったからです。

わたしたちの日常って、何か神の啓示みたいなズバリとした言葉で導かれることがあるわけじゃないですよね。
(まぁ、たまにはあるかもですが)
そうではなく、自分の大好きな人のちょっとした言い方で、ずーっとモヤモヤしてたことってアッサリ晴れるんです。
いろんな人が渚のことを心配したり迷惑に思ったりなんとかしてやりたいって思っても、結局お母さんからの一言で全部解決する。
市郎はそう思って渚を昭和に連れてくことにしたんでしょうね。

このさりげない伝え方。
これが宮藤官九郎の真骨頂だとわたしは思っています。

最後のメッセージは「寛容」

このドラマは「家族」の物語って書きましたけど、このたくさんの家族たちそれぞれに答えがあるんです。
だから「寛容になりましょう」なんですよね。
自分たち以外の人のことはわからないし、最後に何か言いたいことは?って聞いたって、みんな自分のことしか言わないw
それでもいいんです。
市郎みたいにちょっとぼやいて、そのあとニッコリしておけばいい。
このメッセージ。
すごくふんわりしてるように捉える人もいたかもですが、わたしには心にズシンっと届きました。

だって何度も書きますが、人なんて自分以外のことはわからないんです。
でもわたしたちは絶対に誰かと繋がって生きている。
だから、自分のことしかわからないけど、自分のことだけではダメなんです。
だから「寛容になりましょう。大目に見ましょう。」なんです。

「〜しちゃダメですか?」に込められた思い

「ダメですか?」と言うからには、世間的にそれをした方がいいとされていることに対する否定だと捉えられてたんじゃないかと思います。
でもここに込められたメッセージは、そうではなかったとわたしは思います。
「多様性」と言ったら言葉は簡単だけど、わたしたちが生きてる日常って、もっと複雑な構造をしてるってことだと思ったんです。
「頑張れって言わない」ではなくて、「言っていいときも言わない方がいいときもある」。
「一人で抱えないで」じゃなくて、「一人で抱えたいときもある」。
「回収しなきゃ」じゃなくて、「回収できたらいいけど、人生なんて回収できないことだらけだろう!」って。(主観入ってますここw)

だから、「アップデートしなくてもいい」んです。
ツルッとしたやつをアップデートしたら新しい機能が使えるようになるし、新しいもの好きの市郎は絶対にしたいはずなのに、なぜかもういいと思ったんですよね。
純子のことは心配だけど、自分も純子も未来を見てきたから、だからきっと井上がなんとかしてくれるって、昭和と令和を行き来して、市郎は誰かに委ねられるようになったんです。
自分でできることとそうでないことがある。
親ならなんとかしてやりたいけど、でも自分は未来に行って、その未来が過去から繋がってきたものだと確信したから、だから井上に託そうと思ったんじゃないかな。
そうわたしは思いました。
(と、書きましたけど、実は市郎の真意は違うところにあるかもしれない。ここはシナリオ本を読んで書き直すかもしれません。)

最後に井上が2054年からやってきて、結局あの穴に入っていった市郎が見た未来は、もしかしたらちゃんと地震の予知ができた未来で、市郎も純子も生きていたかもしれない。
「震災のことはちゃんと描きたい」と話していた(彼の出身地は宮城県です)くんくだから、最後にちょっとだけ、タイムスリップを描いた作者として、ちょっとだけ希望を託したのかもしれません。
ここはわたしの蛇足です。

最後のテロップ

あれ、粋でしたね。
このドラマについていろんなこと言ってる人がいますけど(もちろんわたしもw)、結局それって「令和の価値観」なんですよね。
あと30年経ったら、たぶんその時代の人に片腹痛いわと笑われちゃうと思います。
でも、くんくが作った物語はみんな唸るんじゃないかな。
勝手にいろんなことを言う人と、しっかり背負って物語を生み出す人の大きな違いはそこにあるってわたしは思います。

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