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翼と自由とギブソンと②

渋谷クラブクアトロライブの翌日、マリノとわたしは渋谷NHKの西口玄関で担当のFさんと合流して大友さんのスタジオへ。マリノは今回の番組には出演しないけれど、わたしのスタッフとして細々世話をやいてくれることになっている。

その日は土砂降りだった。さすが、雨男の大友さんだよねーとFさんに言いながらタクシーに乗った。普通に話しかけてしまったけど、よく考えたらFさんとお会いするのは初めてだった。メールで何度もやりとりをしていたから初めてのような気がせずついつい。おばさんあるあるですみません。Fさんは笑っていた。爽やかで素敵な人だ。

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大友さんのスタジオには初めてお邪魔した。機材やギターがたくさん置いてある。大友さんとは久しぶりなのでしばし雑談。「最後に会ったのはいつだっけ?」「えーと、あれは、『いだてん』コンサートで、あ、いやいや、そのあとにもお会いしていますね」「揖保乃糸の録音?いや、違う、そっちが前だ」「えーとあれは、なんだったか」と二人で記憶の糸のもつれをほどいて、スクールMARIKOのゲストで来ていただいた時という結論に落ち着いた。そう、松江でお会いしたのが最後だった。2019年7月14日のことだ。

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    ↑松江の「たのしい楽団」とともに。2019年。

スクールMARIKOは、大友さんが東日本大震災後に福島で遠藤ミチロウさんや和合良一さんたちと立ち上げたプロジェクトFUKUSHIMA!の活動をきっかけに、福島や原発についての勉強会としてわたしが松江で2013年にスタートさせた。わたしは7年間日直をつとめた。講師ではなくて日直である。講師の先生を福島や東京やいろんな場所からお呼びしてお話を聞く係だった。

2013.3.29プレ大友良英

     ↑2013年のスクールMARIKOトークアンドライブ。

7年間でのべ30名の講師を招いた。大友さんは初回と最終回の音楽ゲストとして来ていただいた。初回は2013年3月で「あまちゃん」が始まる数日前。当時は音楽に詳しい人以外では大友さんのことを知らない人が多くて大友康平さんと間違えている人がいたりした。大友さんはまだ帽子をかぶっていなかった。

なんでそんな勉強会を始めたかというと、わたしの暮らす松江にも原発があるから。そしてここは全国でただ一つ、県庁所在地に原発が立地する町だから。東日本大震災のあとの原発事故を見て、もしもあんな事故がここで起きたらとすごくこわくなったのだ。そして、自分がこれまでなんにも考えずに生きてきたこともこわくなっていろんなことを知りたくなった。同じような気持ちの人は多いかと思い、松江で勉強会を始めることにした。スクールMARIKOについてはまた別に書くとして、今は大友スタジオに戻りましょう。

スタジオの奥のギタースタンドにエレキギターが見える。わたしの父の形見のギブソンのギターだ。生前父が「これ、形見にあげるよ」と冗談混じりに言って、わたしにくれたものだった。もう10年近く前、形見と言う割には全然死にそうにない時のことだった。「もう弾くこともないから、お前さんが使うなら使っていいよ」というニュアンスだった。

父は長年スナックを経営していたが、若い頃には店が暇になるとギター流しをしたりもしていた。子供の頃から見慣れたギターだが、あとになってわかったのは、こげ茶色のギターだと思っていたのは黒だったこと。長いこと店に置いてあったから、タバコのヤニだか手垢だかで飴色になっていたのだ。

何度か弾いてみようとトライしたことはある。が、とにかくこのギターは重い。よほど体力と筋力がないと支えられない。ストラップで下げると肩が死ぬ。自分で弾くのはあきらめてどうせなら弾ける人に弾いてもらったほうがいいと思って、ここ数年メンテもかねて大友さんに使ってもらっている。壊れたつまみのところを修理してもらったり、型番が読めなくなっていたのも調べてもらった。結局それは、70年代中頃製のGIBSON ES-355ということがわかった(ギブソン量産の時期の物らしく市場の価格はそれほどでもなかった笑)。

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      ↑2019年2月「揖保乃糸」のCMリハーサル時。江藤直子さんが「うわあ重い」と言っているところ。

「揖保乃糸」のCMリハーサルの時、大友さんがギターを使ってくれて嬉しかった。父はCMの完成を待たず逝ってしまってギターは本当に形見になってしまった。

思い出話をFさんとも共有したり、武満徹の話をしたりしていると「今回は使わないかもしれないなあ」と大友さんが言ったので、それきりギターのことは忘れていた。(翼と自由とギブソンと③に続く)

一週間に一度くらいの頻度で記事をアップできればと思っています。どうぞよろしくお願いします。