モモ

おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語 〜『モモ』を読んで

モモとジジの関係の美しさ。
それが、おそよ15年ぶりに読んだ『モモ』に関するいちばんの感動だった。
『モモ』。言わずと知れたミヒャエル・エンデの名作。時間どろぼうに奪われた時間を、モモという少女が取り戻す物語だ。

10年以上前に読んだ本を再読するのはすごく面白い。
小学生だったわたしが、『モモ』を読んで何を思ったのかは、正直あまり覚えていないけれど、いくつか、ああそうだった、このシーンが好きだった、というところは思い出す。

もともとは、時間について考えたくて読み出した本だったけれど、読んでみたらもっとも心を惹かれてしまったモモとジジとの描写。
そのことについて、書きたいと思う。


モモ と ジジ

ジジは、モモの親友のひとりで、おしゃべり好きな若者として描かれている。でたらめな話をして人を驚かせたり楽しませたりしているジジだけど、モモに対してはやさしい話をしたり、時間どろぼうに時間を奪われる前も後も、モモのことを気にかけ続けていることは変わらない。

ジジは、みんなを驚かせるでたらめな話とは別に、モモのためにおとぎはなしを作って聞かせるのが大好き。けれど、時間どろぼうに時間や想像力を奪われて、物語作家として忙しくなって、とうとう、モモのためだけにつくってあった物語を、みんなに対して「話してしまった」。モモのための物語を話しつくしたジジは、新しい物語を考えることができなくなって絶望するわけだけれど、この「話してしまった」という認識が、私の中のなにかにひっかかった。
だって、なんだかわかるようでわからない。わからないようで、なんとなくわかる。

ジジのでたらめなお話と、モモのためのおとぎはなしが書かれている3章のタイトルは、「おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語」。
「おおぜいのための物語」と「ひとりだけのための物語」は、いったい何が違うのか。「話してしまった」とはどういうことなのか。


おおぜいのための物語、ひとりだけのための物語

ジジは、モモのための物語を、つまりひとりだけのための物語を、おおぜいに「話してしまった」と言っているわけだけれど、そもそも「ひとりだけのための物語」とはなんなんだろう。
ジジがモモのために物語をはなすとき、その内容はほとんどがジジとモモのふたりを主人公にしたおとぎばなし。モモはそれを聞きたがったし、ジジはだれもいないときにモモに話を聞かせることが好きだった。

ひとつだけ、ジジがモモに聞かせた物語が描かれている。タイトルは「魔法の鏡」。ジロラモ王子(ジロラモはジジの本名)とモモ姫のおとぎはなしだ。このおとぎばなしを聞いて、ああ、ジジは本当にモモのことが好きなんだな、と思った。それはもう、聞いていてすこし恥ずかしくなるほど。
ひとりのための物語とはつまり、「あなたのため」の物語ということ。「あなたのため」ということはつまり、「あなたに話したいことがある」ということ。

ジジの場合、モモのことを心の底から大切に思っていることを、伝えたかったのかもしれないし、ただ、モモの喜ぶ顔が見たかったのかもしれない。だけど少なくとも、ジジは、モモに、聞いてほしかった。それは、そのための物語だ。

その物語を、モモではなく、その他のおおぜいに話すということはつまり、モモに聞いてほしかった話を、モモ以外の人に聞いてもらうということ。

なんだかそれは、ある意味でふたりの秘密を、不特定多数のだれかに話してしまったかのような、寂しさがある。


私は最近、ある人にどうしても伝えたいことがあって、言葉を綴った。直接伝えてもよかったし、SNSでメッセージを送ってもよかった。すこし長い言葉だったから、それこそnoteに文章を書いて、リンクをつけて、言葉を置いておくこともできた。

だけど、わたしは結局、手紙を書いた。それをnoteに投稿することはできなかった。それは、その人に届けるための言葉だったから。確実に届いてほしかったし、それを、だれか他の人に見てもらう必要は感じなかった。その人のためだから書けることがあった。それをだれが見るかわからない世界に放つことは、どうしてもできなかった。

それはきっと、「あなたに話したいことがある」ということだったんだと思う。どこかで見つけてもらう可能性を期待するのではなくて、こんな素敵な話があるとだれかに自慢するのでもなくそれを通してだれかを幸せにしたいのでもなく、たったひとりに、届けたいもの。たったひとりに届けたいものの先に思い浮かべるのは、やっぱりその人の顔だと思う。その人を笑顔にするためなのでなければ、その言葉すべてに意味がないような。たとえ意図せずその言葉がだれかを元気づけたとしても、その人のためでなければ、その言葉は私にとってはもう意味をなさない。
そういう言葉や物語って、あると思う。


ジジは、モモのための物語を、モモの笑顔のための物語を、モモを笑顔にするため以外のことのために語った。ジジにとってその物語は、意味をなさないものになってしまった。それが、ジジの「話してしまった」ということなんだと思う。


間にあるもの

つまり、言葉を、物語を、語る人と、受けとる人の、間に生じるものが問題なんじゃないかと思う。

ひとりだけのために語る人は、そのたったひとりに届けるために語る。その人の顔を思い浮かべて。あるいはその人の顔を見ながら。
受けとる人は、それが、自分のための物語だと、わかる。だからきっと、もらった言葉そのもの以上に嬉しいし、それが語る人の願いでもある。それが、循環していく。
「魔法の鏡」の美しさは、この循環にあった。

これは、受けとる人の態度を、規定するものではない。ひとりだけのための物語も言葉も、そのたったひとりを予想外に悲しませることがあるかもしれないし、怒らせることがあるかもしれない。だけど、少なくとも、それが自分のためのものであることは受けとることができる。それを受けとることができれば、循環は、続くと思う。


ジジの、モモのためだけの物語

時間どろぼうに時間を奪われたジジが、モモと再会し、モモにいっしょにきてほしいという場面は、すこし悲しい。悲しいけれど、モモの強さとやさしさが描かれるわたしのいちばんのお気に入りのシーンだ。

「ぼくといっしょにいてくれ!こんどの旅行にも、これからさきどこにでも、きみをつれてゆくよ。ぼくのすてきな家に住んで、ほんとの王女さまみたいに、びろうどや絹の服をきてくらすんだ。ただいっしょにいて、ぼくの話を聞いてくれるだけでいいんだよ。そしたらぼくもまた、むかしみたいにほんとうの物語を考え出せるようになるかもしれない。『うん』と言ってくれるだけでいいんだ、モモ、それでなにもかもよくなる。おねがいだ、ぼくの力になってくれ!」
モモはジジの力になってあげたい気持ちで、いっぱいでした。そうしたくて、心がうずくほどでした。けれどもモモは、いまジジのいったようにしてはいけないと感じました。ジジはまたもとのジジにならなくてはいけないのです。でももしモモがモモでなくなってしまったら、その彼の力になってあげることなどできません。彼女の目にも涙があふれました。彼女は首をよこにふりました。

ミヒャエル・エンデ『モモ』15章 再会、そしてほんとうの別れ より

もし、もしジジが、モモのためだけの物語を、「ほんとうの物語」だと言うことができたら、モモは首をたてにふったんじゃないかと、思ってしまう。



ちなみに、時間に関してはこの文章が響いた。それはもう、響きすぎるほどに。

時間とは、すなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。

ミヒャエル・エンデ『モモ』6章 インチキで人をまるめこむ計算 より



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