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「好き」だと声にだすことで、「好き」が深まる

好きなもの、好きなこと、好きなひと。
「好き」は私のまわりに溢れている。

だけど私は、「好き」だと言うことがあまり得意ではなかった。正直に言えば今でも得意ではない。

「好き」を声にだせないというもやもやとした思いは、実は10代のときから抱えている。高校のとき、ONE OK ROCKが大好きな友だちが、「大好きだけど、だから軽い気持ちで話したくない」と話していて、その気持ちも、すこしわかるのだ。「好き」と声に出すには、その意味で、安心安全が担保されている必要がある。

「好き」って、すごく繊細だ。

言葉を発するときはいつだってそうだけれど、「好き」は「私が何者であるか」を示すものだ。そして「好き」なんて感情は、心のもっとも柔らかい部分の近くにある。
だから私は恐れている。
「私が何者であるか」をだれかに見せてしまうことを。
そしてそれを否定されることを。理解されたくない形で、理解されることを。

そんな私が、「好き」だと声を出せるようになった。
私の「好き」をちゃんと肯定してくれる人がいることがわかったから。「好き」だと声に出すことが、自分の「好き」をさらに深めることだとわかったから。

「わかる」というのは案外むずかしい。
千野帽子さんが『物語は人生を救うのか』という書籍の中で、
"「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。しかし、「わかる」と思う気持ちは、感情以外のなにものでもないのです。"
と書いているように、「わかる」というのは「知っている」ということと同義ではない。知識として知っていることとは別に、感情として納得することが必要だ。

その意味で、私は最近、やっと「好き」がわかりかけている。
具体的な話をしたい。

私は、作家の平野啓一郎さんの作品が好きだ。大好きだ。
平野さんの小説を初めて読んだのは、去年の春。書店でたまたま手にとった『マチネの終わりに』がその出会いだった。あまりに好きになってしまい、そのあと平野さんの作品をいくつも読んだけれど、私はその話をだれにもしなかった。
小説の続きが読みたくて、帰り道に足取りが軽くなること、「分人主義」の考え方を知って心が軽くなったこと、小説で描かれる繊細な感情の動きで心がいっぱいになったこと、ぜんぶ、私だけのものだ。一日の終わりに、静かな部屋で、ひとりページをめくるのが幸せだった。

けれど、最近は「平野さんの作品が大好きだ」とことあるごとに声に出して言っている。はじめは些細なことからだった。

自己紹介をするときに、「平野さんの小説が好きです。」と言う。相手も同じように好きだと言ってくれれば話がはずむけれど、そうでもない限りはその話を深めたりはしない。それでも自己紹介で好きな本の話をするというのを、自分に強いていた。

私が所属しているコルクラボでは、何度も自己紹介をする。オフラインでの集まりで、安心安全をつくるためにとても有効な方法だから。そこで私が発した「好き」という言葉は、私から離れて、ひとり歩きをする。そう、いい意味で。そして一度わたしが声に出した「好き」は、ふとした時に私のところに帰ってくる。「平野さん好きだったよね!」という言葉と一緒に。

平野さんの作品を読んだ感想、平野さんの登壇するイベントの情報、平野さんに関するあれやこれやを、渡してくれるようになった。先日、コルクラボで『マチネの終わりに』の読書会を開催したのだけれど、その一員として企画ができたのも、「好き」という声のおかげだった。コルクラボメンバーであるきゅうたろうさんが平野さんの読書会を一緒に企画しようと声をかけてくれた。

そこで、大好きな平野さんの作品『マチネの終わりに』のことを語り合った。好きなことについて、ひとと話をするのは本当に面白い。あの人はそんなところに惹かれたのか、という驚きがある。そんな読み方もできるのか、違う角度から考えるきっかけになる。他のひとが感じたことと自分が感じたことの違いから、自分が好きなものの解像度が上がっていく。「好き」という感情にどっぷりと浸かって、その感情が「好き」であることを実感する。どんどん「好き」が深まっていく。

それは、人と話をすることで「好き」が深まる、という話だとも言えるけれど、好きなものについて話をすることにハードルがあった私にとっては、「好き」だと声に出すことがはじまりだったのだ。


※このnoteは、2019年7月に書いたものを、コルクラボの本『居心地の一丁目一番地』に掲載するにあたって、ちょこっと編集を加えたものです。



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