ありのままを受け入れる強さを得たいー一時帰国中の日記ー

というわけで、現在日本へ一時帰国している。

実はこの一時帰国、少し不安だった。

交換留学後の逆カルチャーショックについてはこのブログで何度も触れているが、その時と同様に今回も一時帰国で日本が大っ嫌いになっちゃうんじゃないか…ということを懸念していたのだ。

だから、ユバスキュラから空港行きの高速バスに乗るとき「やっぱりユバスキュラに戻りたいよー…」「一時帰国なんかしなきゃよかったかな…」と思ったし、

成田行きの飛行機が離陸した直後も「日本なじめるかな…」「家族や友人と話が合うかな…」と、楽しみよりは不安ばかりがあった。

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ところが、日本に到着したら意外とそんな不安は感じなかった。

例えば、久しぶりに電車に乗ったとき。交換留学直後に電車に乗ったときは、車内のあまりの人の多さに辟易としたものだ。

だが今回はそんなことにいちいち腹を立てなくなった。平日昼間の成田空港からの総武快速は想像以上に空っぽだった。おまけに電車は山や田んぼの合間を縫って走るので、フィンランドの車窓と途中までは大して変わりがない。

電車が停車する度、少しずつ人は増えていく。空っぽだった座席も埋まり、立っているお客さんも増えていく。フィンランドの電車では考えられない人口密度の高さである。だけど、腹はたたない。むしろ、予想外の人の少なさに驚いたほどだ。

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日本にいてもユバスキュラの友人たちとお土産のことで連絡を取り合えたこと、お土産を買う時間が自然とユバスキュラについてポジティブに思い返す時間になっていたことも、逆カルチャーショックにならなかった原因かもしれない。

空港からの帰宅途中、とある大きな駅で下車し、駅ビル内でお買い物した。ユバスキュラにいる友達から頼まれているものや、とてもお世話になっているFinnish familyのみなさんにお土産を買うためだ。

友人たちの私へのおつかいはなかなか興味深い。「抹茶味のどらやき(なんだか知らないけどその子は今猛烈にどらやきが食べたいらしい)」「抹茶」「キットカット オトナの甘さシリーズ抹茶味(オトナの甘さシリーズだからね!と、念を押された)」「スターバックスの日本限定マグカップ」「寺社仏閣など日本の伝統建築に関する何か(『何か』ってなんやねんと家族につっこまれた、その通りである)」「ポケモンのシール」「カップヌードル シーフード味」…。こんなんいったいどこにあんねん…?みたいなものも頼まれている。

だけど、友人たちが面白い「課題」を課してくれたおかげで、自分ひとりじゃ絶対行かないところにも行くことができた。成田空港のポケモンショップとか。日本人でも日本について知らないことがまだまだたくさんある。それに、どうせお金や労力を使うなら、これからも末永く付き合っていきたい、友人たちに感謝を伝えるために使いたい。

おつかいを私に頼んだ友人たちには本当にお世話になっている。夕食に呼んでもらったり、課題が全然進まない時に家に泊めてもらって、課題に集中できる環境を提供してもらったり。だから私もそういう人たちにできることはしてあげたいと思っていたのだ。(お代はあとで支払うから代わりに買ってきてほしい、スーツケースに余裕があったら買ってきてほしい、と言ってくれる友人たちばかりであるが)

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そして、そんな友人たちの「課題」に応えるべく、家族もいろいろと相談に乗ってくれた。また、自分が個人的に欲しいもの(パソコン機器など)も貸してくれたりした。それ以外にも、私がこのブログで書いていない・書けないことに関してもいろいろと話を聞いてくれている。友人たちからのおつかいの話も「そういう頼みごとをしあえる友人がいていいじゃない」と言ってくれた。

家族と話が合わないんじゃないか…と不安になっていたが、そんなことはなかった。家族がいつも以上に意識して話を聞いてくれているからかもしれない。私自身も他人の話や意見に素直に耳を傾けるということが、以前よりできるようになったからかもしれない。何にもできない自分に若干開き直りつつあるからなのかもしれない。いろいろ思うところはあるのかもしれない。それでも家族が私の想像以上に私の考えや状況のありのままを肯定してくれていることを、とてもありがたく思えた。

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私は交換留学後の3年間、いったい何に腹を立てていたのだろう。

私を応援してくれる人たちは私のすぐそばにいたのに。私が困っていた時に助けてくれる友人たちも世界各地にいたのに。

自分の考えだけを押し付けてくる人も確かにいたけど、そんなやつばかりではなかったのに。

なんで私は勝手に孤独を感じていたんだろう。なんで「だれも私のことなんかわかってくれない」って思っていたんだろう。

交換留学直後に、私のすぐ近くで日本に対する憤りやショックを共有できる人は少なかったかもしれない。でも、私の感じる違和感はその他大勢にとっての違和感でもあるということが、選挙を間近に控え実感できるようになった。

今の日本は改善すべき点がたくさんある。日本社会に根強く残る偏見や不平等を生み出すシステムにいら立ち、絶望することもある。「こんな国に生まれなかったら」と、思うことも正直、ある。隣の芝生が青いだけだったとしても。

だけど、その絶望を一人で抱え込む必要は実はなかったのだ。ツイッターなどを見る限り、私と同じように今の日本に憤りや危機感を感じる人も多いのだとも感じる。今の日本がこのままではいけないと危機感を覚える同世代も多い。そういう仲間が、直接の知り合いでなかったとしても多く存在するということが、SNSなどの投稿を通して最近になってわかってきた。

もちろん、私には話を聞いてくれる、自分自身をありのまま受け止めてくれる家族も友人たちもいる。

私は一人ではなかったのだ。私は決して一人で闘っていたわけではなかったのだ。自分の周囲に壁を作り、勝手に分かり合えないと思い込んでいたのは私自身だったのだ。

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そして、私は間違っていなかった。自分の国の課題に対して批判するということはとても自然な行為だ。自分の住んでいる場所をよりよくするというでもあるからだ。自分の母国や今住んでいるフィンランドがなにか尊厳に欠けることをしたら、その国の国民として在住者として、憤りを感じて当然だ。

腹が立つだけで変革のために具体的かつ大規模な行動を起こせなかったとしても、おかしいと思うことを「おかしい」とみんなが言い続けていれば、それは変革への大きなうねりになる。私も『みんな』の一人になればいいし、一人ぼっちになってしまっても細く長く主張を続けていればそれがやがて大きな声になる。それが正しい主張ならば。

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私の理解者はすぐそばにも、世界各地にもいるのだ。何も恐れることはない。おかしいと思うことを主張していい。理不尽なことに腹を立てていい。

ありのままでいい。

強さとは孤独を生き延びられることではない。他人に素直に耳を傾け、礼儀正しく頼れること。自分一人の力の限界と可能性を、ありのまま受け止められることだ。

そういう強さを得たい。


そんな、皆様からサポートをいただけるような文章は一つも書いておりませんでして…