見出し画像

ある本屋で、コーヒーと。2

続きものです。
からお読みください

 私はカフェのレジで注文していた。ホットのカフェモカMサイズを頼んだ。レジを打っているのは、彼だ。お釣りをもらう時に手が触れると、彼は優しく微笑み、慣れた手つきでカップに注文を書いてドリンクを作るスタッフに手渡した。蒸気が上がり、トントンとミルクの泡を整える音が響いて、手際よく私のカフェモカが仕上げられていく。「カフェモカMのお客様」と呼ばれ、スタッフから渡されたドリンクのカップには

「Later 🍯」

 Laterの後に【ハチミツ】の絵が描かれていた。その意味は「Later Honey」このフレーズは待津野ひまわりの作品によく登場するもので、もちろん意味も知っている。親愛なる人へ向けてのメッセージ。

「あとでね♡」

 私はカップを見てにやけ、その温もりをいつまでも感じたくて、両手で包み込んで大切に運んだ。今日は比較的空いている。二人掛けのテーブルに腰を下ろし、いつものように本のページをめくる。

 先週、彼と出会った時の本はすでに読み終えていて、今手にあるのは昨日読みだしたばかりの本。ベストセラーをバンバン出していて、今年の直木賞を獲った乗りに乗っている男性作家の作品。本屋の目立つところに広く特設コーナーが設けられているほど人気がある。
 いつものように本とコーヒー(今日はカフェモカ)を並べて写真を撮る。自分だけのインスタに投稿してから、ページをめくる。まだ冒頭だが、王道ミステリー感がプンプンしてくる。張り巡らされた伏線を丁寧に確認しながら、次の展開を予想して読んでいくのは楽しい。

 だが、私は普段、人気作家の本は読まない。

 本当は、日の当たっていない作家が好きだ。読者は自分だけじゃないかと思ってしまうようなマイナー具合で、友達に紹介しても同意が得られず、本屋にも一冊その人の本が置いてあればラッキー!と喜べるくらいが丁度いい。自分だけがその良さを知っている、いやむしろ、私だけに向けて書いてくれているのではないかと錯覚すらできるような作家が。これは売れないヴィジュアル系バンドの追っかけをしている感覚なのかもしれない。
 でも最近、少しずつ【待津野ひまわり】の作品に光が当たってきているのを私は感じている。そもそも全く売れていない作家の本が定期的に出版されるなんておかしいと分かっていたが、少なくとも私の周りには読者はいなかった。だから安心しきっていた。

 それが先週、ヘビー読者の彼と偶然出会った。正直、待津野ひまわりの本を読んでいる人と出会いたくないと願っていたが、出会ってみたらものすごく嬉しかったーもちろん、彼だからと言うのはあるかもしれないがー。私と同じように彼女の本を好きな人たちがこの本屋の中にも潜んでいるのかもしれない。ゴキブリを1匹見つけたら、その家には10匹はいるという話と同じである。
この例えは、良くない。私は頭を振って、脳内から黒い生物を追い払った。

 人気作家の本を読んでいるつもりが、結局、待津野ひまわりと彼のことを考えていた。

 私は気配を感じ、振り返った。
 女が大量の血を流して倒れている。
 驚きのあまり、声が出ない。その場に立ち尽くしていた。

 不思議なもので、ストーリーの展開はきっちり頭に入ってきている。読んでいる本の中で、高飛車な女弁護士が胸を数十か所刺されて殺された。第一発見者で主人公の家政婦はこの後、間違いなく犯人と疑われるだろう。

 その時、不意に肩を叩かれ、心臓が飛び出るくらい驚いて、恐る恐る振り返った。

「おつかれ」

 彼が笑って立っていた。私は、お疲れ様、と小さな声で返した。向かいの席に彼が座る。彼の手に持っているのはカフェモカだった。ハッとあることを思い出し、自分の顔が少し赤くなるのを自覚した。

「これ・・・ありがと」

 カップに書かれた文字を彼に見せると、彼はニコニコして、ひまわりさんのパクり、と言った。「Later 🍯」二人だけの秘密のメッセージ。いや、待津野ひまわりとその読者だけが使える特別な言葉だ。

 彼がカフェで働いているのは週に1日だけ。大学院生で、1週間のほとんどの時間を研究に費やしていると言っていた。年齢は24歳。私の一つ上。彼のことをもっと知りたいけど、一緒に好きな本を読んでいるこの時間が大切だからそれ以上のことは求めない。カフェで、本とコーヒーさえあれば良かった私に、もう一つ、大切な存在ができるなんて思ってなかった。

「あ、今それ読んでるんだ。意外」

 私の読んでいる本を見て、彼は真顔で言った。「意外」と言われて、その言葉をどう捉えていいか困惑した。読んでほしくないと思われたのか、それとも、読んでいるのが好感を持てたのか…。私はその人気作家の本に目線を落とし、彼の言葉にある心理を探ろうとした。

『違うんです!私はただ・・・』 

 本の中で家政婦が叫んだ。自分の無実を訴えている。

 待津野ひまわりの本を読んでいないことが、ものすごく悪いことのように感じられた。言うなれば、浮気をしてしまったのと同じに思えた。いつもと違う自分を彼に見せたくて、軽い気持ちで手に取った本だったのに、結果的に彼を傷つけることになったのかもしれない......私は暗い気持ちになった。

「違和感を、愛してる」

 彼の言葉に私は顔を上げた。その言葉の意味が理解できず首を傾げている私に彼はスマホの画面を見せた。そこには、今私が読んでいる本の写真が表示されていた。なぜ彼のスマホに私の読んでいる本の写真があるんだろう?ますます迷路に迷い込んでしまう。そんな様子を見て彼は面白そうに言った。

「僕、1年前くらいに読んだよ。このセリフが一番効いてたんだ」
「その、違和感を、って言葉?」

 彼は頷いた。私が読んでいる本を彼は1年も前に読み終えていたとは。また共通の本があったことに小さな喜びを感じていた。しかも、待津野ひまわりの本以外で。

 それから二人で静かに読書をして過ごした。

「あっ」私はつぶやいた。「どうしたの?」彼は訊ねた。今読んでいるページを彼に見せる。

『違和感を、愛してる』

 二人の声が重なって、私達は笑い合った。あっという間にカフェの閉店時間になって、名残惜しさを感じつつ、私は帰路に着いた。駅から家までの帰り道。私は彼の笑顔を思い浮かべながら、彼の発した言葉の意味を考えていた。

「Later Honey」

 それは親愛なる人への言葉。普通ならただの友達には言わない。まだ会ってまもない私にそのメッセージを送る意図は何なのか。頭の中に浮かんだことは、【もしかして......す......き?】私は頭をブルンブルンと激しく振った。そんなことが起こるなんてあり得ない。違和感がある。

『違和感を、愛してる』

 それは解けそうで解けないミステリーのように、張り巡らされた伏線の中で身動きが取れないのと似ていた。そのじれったさが心地よく、いっそ迷宮入りしてしまおうかという気持ちになる。

 違和感の理由は分かっている。偶然が多すぎる。私みたいな読書しか趣味のない地味な女に、あんな素敵な男性が興味を持つのだろうか。例え、同じ作家が好きだという共通点があったとしても。

 得体の知れない快楽と漠然とした不安にいつまでも包まれていた。

続く。

クリエイトすることを続けていくための寄付をお願いします。 投げ銭でも具体的な応援でも、どんな定義でも構いません。 それさえあれば、わたしはクリエイターとして生きていけると思います!