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『結婚商売』のテーマは善か無慈悲か

『結婚商売』コミック日本版が2部に突入しました。冒頭(馬上槍試合の祝賀会)から原作と異なる雰囲気になってきて、特にザカリーとビアンカの互いへの接し方などは原作厨としては居た堪れないものがあります。本来ふたりは第1部終わりの初夜を境に、一応夫婦として成立したもののアラゴンの総攻撃まで続く同床異夢に苛まれ続けるはずなのですが、この記事を書いている現在(56-57話)、ふたりは上位貴族とは思えぬ発言を王城で飛ばすバカップルと化しており、筆者の周辺では「我々はなんのために課金してるんだろう…」という嘆きが渦巻いています。
最後まで読んで見届ける覚悟は決めていますが1年近く追い続けたこの物語の主題をここらで私なりにまとめてしまおうというのが本稿です。

以下めちゃくちゃネタバレします。

筆者目線の本作テーマは「騎士と宗教」

筆者が『結婚商売』にハマったきっかけは、"表の主人公"であるビアンカが"表の主題"である女性貴族の生きづらさに抗う自己実現ストーリーと、自分の守備範囲である中世フランスが土台になっていると気づいたからですが、のめり込むに至ったのは"裏の主人公"である夫ザカリーが騎士としての自分と己の欲との間で鬱陶しいまでに煩悶する騎士道物語としての面白さと、"裏の主題"がこれまた私の守備範囲である宗教学に絡んでいたことが大きいです。
結果、この物語は何を主題としていたのか?という点も私の目線では宗教に絡んできます。あくまでも女性の自立をテーマとする考えはもちろんあるかと思います。

雑学④に書いたとおり、騎士の存在価値(理想)とカトリックの教義は非常に密接な関係性にあります。そして物語の中で「神は原則として人界のことには関わらないが、看過できない事態が起き得る場合に限り、天啓を下される」とされています。
『結婚商売』のラスボスは第2王子ジャコブです。彼の象徴に蛇という原罪に関わるモチーフを用いている点、ザカリーが(原作において特に)騎士であることに誇りを持っている点、そしてビアンカが天啓を受けた聖人でり、彼女が未来に抗ううちにセブラン対アラゴンの領土戦争が聖戦の様相を呈していく点に、この物語の裏テーマが絶対的な存在=神の御手が動くとき人の生涯と歴史が大きく変わるさまを描き出すことにあったと気づきます。

聖人ビアンカは聖人君子ではない

ビアンカはキリスト教における聖霊の象徴である"鳩の聖痕"を額に宿します。
彼女は40歳近くまで悲惨な目に遭いながら生きた末に18歳へ回帰したのではなく、自分が悪妻のままであれば辿る未来を予知夢で見たのです。
物語の開始時点では「自分が貴婦人として生き延びる策略として」夫ザカリーや領民たちへの振る舞いを改め、自分にできる産業を興すために奮闘した彼女ですが、その過程で他者に思いを馳せるうちに他の誰がどうなっても構わないという傲慢さは薄れ、「ザカリーとアルノーを救いたい、ともに生きる未来を得たい」という境地へ至ります。物語終盤における彼女の八面六臂の大活躍、その原動力ですね。

ただし彼女はカトリックの聖人ではあっても聖人君子ではありませんから、自分たちに害なす存在を徹底的に嫌悪し、誅伐するわけです。ここで「たとえ自分が死んでも」とはならないのがビアンカらしいといいますか。

異端であって悪人ではないかもしれないジャコブ

さて、そんな歴史の動きに誅伐される対象がジャコブです。
彼は稀に見る不幸な生い立ちの王子ですが、物語において彼の母からして教義に背く存在であり、またふたりとも正当な権利なく国や異性に執着する存在として描かれました。

ジャコブの王位簒奪はアラゴンとの長年にわたる密通と身内殺しによって成立します。そういった手段を取る存在が世俗(神に貢献したカトリック大国、現実世界ではフランス王国)の権力を握ることを看過できなかった神(カトリック教義)は、騎士道つまり天の美徳を体現するザカリーを生き延びさせることでカトリックにおける"正しい人界"を守ろうとするわけです。
実際、現実世界では宗教戦争も侵略戦争も起き続けていて、ジャコブなど足元にも及ばないような悪人もゴロゴロしているわけですが、神の手(宗教)をモチーフにする以上、ラスボスは悪人ではなく異端でなくてはならなかったのでしょう。
(21世紀に宗教対立の物語を書くのは世評を考えると非常に厳しいでしょう)

検証と考察を終えて

こうして辿ると『結婚商売』には善悪のみならず、信仰、社会階級、出自といったものに振り回される人間たち、そして夫婦の在り方…と、さまざまなテーマが潜んでいたことに気づきます。
その多くが人により解の異なるものだけに、これという結論は永遠に出てこないでしょうが、それが作者の狙いだったのかもしれません。

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