「フェミニズムに対する女性の反発」について、「差別を受けてない」と感じる立場から

ハヤカワ五味さんのnoteを読んで、そうだそうだと思い、インスパイアされたのでちょっと書きたい気持ちになりました。

「権利や力を持ったうえで、そのポジショントークを他者にも適応しようとするのはダサいし、それ自体が差別者を擁護し被差別者の心を踏みにじる」

これは本当に真実だと思う。「自分が差別を受けていない」ことが「誰かの差別を否定していい」ことには絶対になりません。

最近、女性経営者が集まったときに話題に出ることが増えたように感じるのが「セクハラ」に関する話題です。どの男性起業家や投資家からセクハラを受けたという話が、実名でせきららに語られることもある。

こんな話に対して、実は私はいつも実感がわかずにいました。私自身がセクハラ被害と感じられる体験に出会ったことがなかったからです。

あえて言うと、セクハラについては、私自身はケイ・コプロヴィッツさんのこの発言と同じような感覚を持っています。

私自身は、男性社会でサバイブするのが大変だと感じたことは一度もありませんでした。当時、女性でそんなことをしていたのはほかにいませんでしたから、私は非常に独特な存在だったと言えます。そして、そのユニークさが、ある意味で私の優位性でもありました。
最強の女性起業家が語る、シリコンバレーのセクハラと#MeToo 問題

コミュニティ(金融とか起業家とか)において数少ない女性として大切にしてもらってありがたいと思うことはあれど、「女性だから」損をしたと感じることは一度もなかった。だから、「私は差別による被害を受けていない」という人の気持ちはよくわかります。

けれど、たとえば人は、性的な対象として相手を認知しているときに脳の共感に関わる部位の機能が低下する、という研究があります。

性的対象として見ている女性に向き合っているときには、男性の共感性を司る脳の機能が低下する。だとすると、たとえば若い女性や魅力的な女性などが見ている「男性」は、それ以外の人たちが認知している「男性」よりも、非共感的で暴力的な存在なのかもしれません。

彼女たちにとって世界は、わたしたちが見ているよりもずっと危険な場所なのかもしれない。

こうした脳レベルでの差異ひとつとっても、「わたし」の見ている世界は誰かの見ている世界とは絶対的に異なっている。それは主観だけではなく「現実」としても異なっているということです。

だから、自分が体験していないからといって「差別や暴力がない」とは絶対に考えてはいけない。そして「自分が差別受けていない」あるいは「差別を受けていない人がいる」を理由に「差別を受けるほうが悪い」と主張することはとても危険だし、そういう空気が容易に生まれうることに対しては十分に意識的でないといけないな、と思います。

ハヤカワ五味さんのnoteは、私のような立場の人間の発言によりそうした空気が生まれていくリスクへの素晴らしい問題提起だなぁ、と感じました。

生物的性差はある、でも社会が生んでいる暴力もある

一方で「学者や政治家など、社会的権力のある地位にいる人の多くが男性で構成されている」という事実に対して「男女に能力差はないはず、社会がこの問題を構成している」という議論も「男女は異なる生き物なので、社会的地位に差が出るのは必然である」という議論も、偏っているなぁと思います。

私は進化心理学を学んでいたこともあり、身体・心理面での男女差は存在する前提で考えています。例えばシステム思考能力の平均値は男性のほうが高いし、共感性の平均値は女性のほうが高い。だからたとえばシステム思考が必要とされる職業の上位1%をとると男性比率が高い、ということには必然性があると思っています。(共感する女脳、システム化する男脳ーサイモン バロン=コーエン)

これは全ての男性のシステム思考が女性より高いとか、そういう話ではありません。「男性の平均身長は女性の平均身長より高い」みたいな話です。男性より背の高い女性も全然珍しくない。でも例えば男女の集団を分けずに並べたときにトップ層は男性で構成されることになるはずです。

ちなみにこのシステム思考能力や共感性の男女差自体も社会的要因であると捉える説は常にあります。このあたりの批判は「The Gendered BrainーGina Rippon」あたりがアップデートされています。

個人的にはこの論争は、生物ー社会の二元論が生む誤謬であるように感じます。

本来「生物的要因」「社会的要因」は相互に影響を与えながら構成されているシステムです。社会学者が考えているよりも生物的影響がある。でも生物学者が言うよりは社会的影響がある、というのが現実なのではないか。

だからお互いに議論する意味はありますが、相手を否定する必要はない。

私自身のスタンスとしては「欲求や動機付け・特性に生物的な差異はあるから、例えば権力者における男女の割合が50:50になっていないことはある程度仕方ない。でも社会によってそれが増幅されている部分は必ずあるので、そのことを認識しながら適切に是正した社会に向かうべき」といったところです。

性差を全否定することも、強要することもとても暴力的なことです。

フェミニストも非フェミニストも、人を「性別」としてラベルづけしてそこに大きな力を与えていることに変わりありません。そして現代社会が「ジェンダー」という檻から解放されきっていないことはまぎれもない事実だと思う。

ひとりひとり異なる「ジェンダーの檻」のあり方を、誰かと比べても仕方がないし、仕方ないと諦めるのも違うし、実は全員がとらわれているのだと主張するのも違う。わたしとあなたは違うのだ、という前提からはじまると良いなと思います。

他者を「性別」で捉えるのではなく、わたしとあなたは違う人間であり、違う環境に直面しているのであり、それぞれが個性を持った「個人」であるという前提で他者と向き合う姿勢が、社会としてのやさしさなのではないでしょうか。

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