「まともな言葉」は世界に届かない | 誠実さと届けたいもののあいだで

あんまりポリポリしたことを言ってこなかったわたしが、少し思うところあってフェミニズムに関するnoteを書きました。自分で言うのもなんですが、とても中立的に、知性的に文章を書いたつもりです。

このフェミニズムnoteを書いて気づいたこと。それは「まともな言葉」は世界には届かないのだということです。

私の発信に対して普段とっても辛口な友人がこんなことを言ってくれました。

日本一まともなフェミニズム言説。しかも怖くない。自分自身はフェミニズムにトラウマがあるから、怖くなくて知性によって成り立っている言説は素晴らしい。
でも、まともなことはバズらないね。

確かに、このnoteに対しては一部の知性的な知人からこっそりメッセージをいただいたりしたのですが、一般の反響はそれほど大きくなかった。

こちらは有料noteだけれど、塩谷舞さんも「Web時代のメディアリテラシーとは」というnoteでこのことに触れてくれました。

ただ、世の中として残念なことに、「優しい言葉」は拡散されにくいんです。

また、京大卒の主夫さんの書いてくださったこちらのnote。

上野千鶴子の言葉がいつも挑戦的で扇動的なのは、バイアスを気づかせ、壊していくための強さが必要だからだ。私たちにはことばが必要だ。

「まともなこと」は拡散されづらい。それは「まともなこと」は人を傷つけないし怒らせない、そして普段傷ついている人の思いを本人以上に代弁することもないからなのでしょう。

上野千鶴子さんのような方が「まともなこと」を言えないわけがない。でもあの人の言葉があんなにも強いのは、人を動かすのが「恐怖」であり「怒り」であり「傷つき」であることを知っているからなのだと思います。そして彼女は、誠実であろうとするよりも「人を動かそうとしている」からなのでしょう。

メンタルヘルス事業の中で「誠実であること」と「多くの人に届けたいと思うこと」

私たちの会社はメンタルヘルスケアサービスを運営していますが、その運営の中で必ずぶつかる葛藤があります。それは「どこまで誠実であろうとし、どこまで自己責任の範囲とするか」ということです。

たとえば、お客さんを増やそうと思えば、HPに「これを使えば○○という効果があります!」とわかりやすい言葉で伝えることもできます。そうしたほうが圧倒的にわかりやすく「使いたい!」と思う人は増えることでしょう。でも、そうすることは誠実ではないからやらない。そうしたHP上の文言のひとつひとつをとっても、嘘にならないよう、過度な期待を生まないよう、使った人が傷ついてしまわないように意識をしています。

もうひとつ、私たちが多くの人にサービスを届けるために「誠実さ」を犠牲にしている例として。

うちのサービスは利用規約の中で希死念慮のある方の利用をお断りしています。サービスを運営しはじめた初期には、そうしたユーザーさんからの投稿やメッセージに対してひとつひとつ丁寧に、誠実に対応しようとしていました。でも、それをやることで私たち自身が運営者として疲弊してしまう上に、そのユーザーさんにとっても良い結果になったのかどうかわからないこともあった。

だから、本来であればひとつひとつ丁寧に向き合いたい気持ちでいながらも、ルールとして「希死念慮のある方はこのサービスは使うことはできません」と画一的に対応することになった。これは、多くの人にサービスを提供する者としてひとりひとりにそこまでの対応ができないし、緊急の危機介入ができない立場でそれを受け容れる姿勢を見せることが利用者さんにとってのリスクにもなると判断したからです。

とあるひとりの人に誠実であろうとすることと、多くの人に届けることは、トレードオフになってしまうことが多い。私たちは、より多くの人にサービスを届けたい、でもできるだけ誠実でありたい、という葛藤を常に抱えています。

誠実さと届けたいもののあいだで

言葉は、他者に「伝える」ために使われます。言葉を発するとき、人はそれが他者に届いてほしいと願っているはずです。

でも、究極に誠実であろうとするならば、あらゆる言葉は語られるべきではないのではないか。なぜなら言葉が完全に現実や真実を表象することはありえないし、そこに書き手が他者に伝えようとする「意図」が存在する以上、完全に中立的ではありえないから。

誰も傷つけることなく、ひとつの嘘をつくこともなく、多くの人に向けてビジネスや発信をすることは不可能です。

そこにいたってわたしたちは「誠実か不誠実か」ではなく「どの水準の不誠実であれば許容したいと思えるか」を問われることになります。「なんのために誠実さを犠牲にする必要があるのか」それから「誰のどんな傷つきであれば許容できるのか」ということです。

「この嘘をついてでも、達成したい/守りたいものがある」(動機付け)

「これくらいの嘘なら、大切な人を傷つけないから大丈夫」(許容可能性)

「誠実でありたい」という思いと、「不誠実さを許容する動機付け」と向き合い続けることが、それぞれの「倫理観」になるのでしょう。

「まともな言葉は世界に届かない」という諦めと、「それでも人を傷つけたくない」という諦められなさと。その葛藤を乗り越えて「伝える」ために必要なのは「誰かを傷つけるリスクを負ってでも、自分が届けたいものを多くの人に届けるのだ」という覚悟なのかもしれません。

それが「有名になりたい」「認められたい」「儲けたい」などのエゴと結び付くと、扇動的なことばや、誰かを傷つける強い言論や、依存を生み出すビジネスになることもある。

それをなくすことはできない。世界はそうして成り立っているから。

だけれども、わたしたちはそういう誰かの「覚悟」や「エゴ」に運命を翻弄されてしまわないように、その人たちの意図と人間性を見通す主体性と知性を持っていなければなりません。

そして、ひとりの書き手として、自分のエゴのためではなくより多くの人にとって生きやすい社会をつくるために伝えていける存在でありたいし、そういう人が増えていくといい、と思いながらこの文章を書きました。

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cotree advent note 29日目
https://note.mu/kaz_hirayama/m/m7af22fc58495
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コメント3件

引用いただき、ありがとうございます。上野さんも本当は強い言葉なんて使わなくて済むなら使いたくないのではないか、とわたしは思っています。彼女が穏やかに話せるように、そんな強い言葉が必要でなくなればいいなぁ、と思っています。
フェミニズム言説が極端になることは、当事者の特権であると思う。極端になることがあたかもネガティブなことであるように、自分の方がよりよく(=中立的、客観的に)世界が見えているかのように振る舞うことは、差別を受けてる側にとっては簡単に暴力になりうる。それができることが、差別を認めて、さらにはその構造を擁護することになりかねない。差別を受けてる側が、当事者として語ることに意味があるのだと思う。
まともな言葉は、届いてくれるはず。当事者の言葉じゃないから、届かなかったんじゃないか。
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