願わくは花の下にて春死なむ

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

「できることならば、桜の花の下で春に死にたい。」

この句を詠んだ西行法師は、実際に桜が満開になった、(旧暦の)如月の満月の頃に亡くなった。

「桜」と「死」というモチーフは文学の中でも繰り返し描かれている。ひとが桜の花にこれほどに魅入られてしまうのは、それが「死」を意識させるからではないかと思う。

何度読み返しても息が詰まってしまいそうな描写があやしく美しい坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、あまりにも一面に満開の桜の森で、愛しているはずの女を鬼と間違えて殺してしまう話だ。そして男は「孤独」を、あるいはすでに孤独であったことを知る。

満開の桜の美しさは、それ自体が完全であるゆえに孤独を、そして「終わり」を浮かび上がらせる。いつもはまっすぐに見つめることを避けている、いつもそこにある闇を照らしてしまうのかもしれない。

目の前に「不完全」があるときに、ひとはその不在を憂い、それを得るために苦しみ、喜ぶことができる。不完全な存在が完全に近づいていく喜びが「生きる意味」と呼ばれることもある。

不完全が完全に近づいていく希望に、ひとは生かされる。年をとれば自身は衰えていくけれども、そのときには自分ではない誰かが「育っていく」ことに喜びを感じるようになる。

ひとは不完全なものによって苦しむけれども、不完全なものによって生かされてもいる。

満開に枝垂れる完璧な夜桜は、否応なくその「終わり」と「孤独」を予感させて「こわい」と思った。でも一方で、だからこそこれほどまでに美しいのだとも。

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コメント2件

いつもありがとうございます。
桜って不思議ですね。葉の前に花だけつけて。それゆえいろいろ想うのかも。
なぜか鈴木俊隆さんという僧侶の「世はバランスを欠いていて、しかもそれで調和している」という言葉を思い出しました。
満開もいいですが、まだ蕾残る頃や葉桜もステキですね。
突然のご連絡失礼します!
取材の依頼をしたく貴社ホームページからメールを送らせていただきました。ご確認ください!
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