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「無自覚な本能」と「上級・下級」国民という言葉について

第2回記事です

突然だが、皆さんは分断本能という言葉をご存知だろうか?



これはFACT FULNESSという本に出てくる言葉だが、簡単に言えば、人は様々なものを2つに分けないと気が済まない生物であるということらしい。


FACT FULNESS


例えば、貧乏人と金持ち、世界の人間はこの2つに分かれていると思い込んでいる人は多い。


実際にデータを見ると、別に貧乏ではないが取り分け金持ちという訳でもない、というような人々が世界の人口の7割程を占めているにも関わらずだ。
(ここで言う金持ちとは、日本を含めたG7に入るような先進国であったり、医療福祉、社会システムが充実した北欧の国々のことを指す。)


先程名前を出した本の中では、世界を4つのレベルに分けて考えるべし、と綴られている。


あまりここで話すとネタバレになってしまうので、今回はレベル毎の人口分布について軽く紹介させてもらおう。


先ず、世界には70億人の人々が暮らしていて、レベル1には10億人の人々が暮らしている。次に、レベル2に30億人、レベル3に20億人、そして我が国日本を含めたレベル4に10億人、といった具合である。


この「4つのレベルに分けて世界を見る」という考え方は非常に重要だ。


今回の場合も、レベル分けを行い、それにデータを当てはめて考えれば、所謂中間所得層が1番多いことが分かる。


「エリート」



このような言葉を聞いた事はあるだろうか?


これも分断本能の一種である。何故そう言えるかというと、「エリート」と「そうでない人達」これを分ける明確な定義など定められていないし、そもそも定めることは出来ないからだ。


ここで簡単な思考実験をしてみよう。先ずこう仮定する。

「エリートとは年収1000万円以上の人のことを指すのだ」と。


さぁここで疑問が湧いてくる。


年収999万9000円の人はエリートでは無いのか?


1000円だ。その差はたったの千円なのだ。


正直あってもなくても変わらないような金額である。


だが、今仮定した定義に当てはめればこの人はエリートではない。



まったくふざけた話であるが、何故このようなことになるのだろうか?


それは定義しようとするその行為それ自体がバカバカしいからである。


思考実験の話をする前に、そもそも定義することなどできないと書いたが、その意味を分かっていただけただろうか。



基準を明確に定義することもできないのに、どうして「エリート」と「そうでない人達」という2つの勢力を見ることができようか。


世界とはどこまでも複雑で難解なものだ。


そして残念ながら我々は非常に頭が悪い(この地球上に存在する人類以外全ての生物を比較対象から除けばの話であるが)。


混沌としたありのままの世界の情報をそのまま思考に使ってしまえば、我々の脳はあっという間にオーバーヒートしてしまうだろう。


思考停止してフリーズしてる間に、何処かの肉食獣に食べられてしまう(ちょっと極端な言い方をしたが、何れにせよ我々の能力が有限である以上、思考に必要以上のリソースが割かれることは好ましくない)。


それでは生き残れない。どうにかしてデータを圧縮しなくてはならない。


そうして我々が進化の過程で手に入れた能力が、この分断本能である。


世界をパターン化すれば、大幅にデータを圧縮できる。


こうして思考を軽くすることに我々は成功したのだ。


人類が狩猟をして生活していた時代の名残が今も尚我々の中に生きていると考えると、感慨深いものがある。


余談だが、この拙文にも度々出てきている、「分かる」という表現。


この「分」という漢字の意味は、「別々にする」「わける」といったものだが、そこに「かる」という送り仮名をつけて「理解する」という意味になる。


この表現が、我々が世界の事象をパターン化して別々に考え理解しているということを表しているような気がするのは私だけだろうか。


もしそうだとすれば、日本語というのは非常に上手くできているものだと私は思う。


話を戻すが、人類が狩猟をして生活していた時代、この分断本能は非常に便利であったに違いない。


これがあるだけで随分と物事を考え易くなる。


しかし、社会が成熟し、文明が発達した現代では、多様な人種、民族間で交流が行われるようになった。


そうした時世においてこの分断本能は時に、苛烈な差別や偏見を助長する可能性がある、ということを我々は肝に銘じなければならない。



と、ここまで前置きを1800字程に渡って長々と書き続けてきたわけだが、これは皆さんに必要な予備知識を持っていただくための、必要悪であったことをご理解頂きたい。


ここからは本題であり、タイトルにも書いてある「上級国民」「下級国民」という認識について書いていこうと思う。


察しの良い読者様ならもうこの長い前置きの時点で、私が何を語ろうとしているのか分かってしまったかもしれないが、結論から言えば、「国民に上級も下級もない」である。


国民という、様々な人間や要素が複雑に混ざりあった、いかにもデータ容量を食いそうな概念を前に、池袋の事件がトリガーとなって「上級」と「下級」という分かりやすい括りが生み出されたのだと私は考えている。


もちろん、原因は本能だけではないだろう。


日々の生活に対する不満であったり、自分よりもお金を持っている人に対する僻み、高齢者への社会福祉が重くのしかかってくる若年層が持つ不公平感、沢山の要因が複合的に導いた事象だ。


しかし、この本能が原因の一役をかっていることは間違いない。



何せ、そのまま分かりやすい表現に「分断」して不平を漏らしているのだから。


ちなみにこの池袋の事件に関しては、Vtuberである懲役太郎さんの動画が非常に分かりやすいので、そちらを是非見てもらいたい。

懲役太郎さんの動画


別に私は、上級だの下級だのと宣う人間を、「本能に抗えない猿」と卑下するためにこの文章を書いているのではない。


私だってついこの前までこの分断本能に翻弄されてきたし、今だって強烈な誘惑に抗い続けている。


気を抜けば私も忽ち飲み込まれてしまうだろう。


人間誰しもが分断本能を抱えている。


私がこのnoteを通じて皆さんに伝えたいのは、もし冷静に世界を見つめたければ、我々は常にその分断の誘惑と戦い続けなければならない、ということである。


自分で考えているようで、実は本能に誘導されてしまう。


これは思っている以上に恐ろしいことだ。


分断本能以外にも、FACT FULNESSでは様々な本能が紹介されている。


そのうちの1つに、犯人探し本能というものがある。


これは、読んで字の如く犯人を探したくなる本能であるが、この本能は「いじめ」を引き起こす。


これは非常に恐ろしいことではなかろうか。


我々は知らず知らずのうちに本能に引き摺られて他人を傷つけてしまうのだ。


詳しくは「人はいじめをやめられない」という本を読んでいただければと思う。

人はいじめをやめられない


性欲等、本能は時に我々を犯罪者にしてしまう。


性欲がなければそもそも性犯罪など起こしようがない。



しかしだからと言って性欲がなければ我々はとっくに絶滅していたであろうから、いらないとも言えずむしろ必要なものであるということは、多くの人が共有できる認識だと思う。


そして何より性欲は自覚できる。自覚できるからこそ我々は理性で抑制できるのだ。


では今回紹介した、「分断本能」や「犯人探し本能」はどうだろうか?


貴方は今までこれらの本能を自覚し、抑制できていただろうか?


これらの本能の真に恐ろしいところは、こうして言われるまで「自覚できない」という点にある。


このnoteで紹介したものや、大元のFACT FULNESSにものっていないような「無自覚な本能」はまだ無数にあると私は考えている。



皆さんには常に、自分が「無自覚な本能」に流されているという可能性を頭の隅に入れておいてもらいたい。

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