何でもいい

何でもいいことってすごく多い。お昼に食べるメニュー。

「何食べたい?」
「何でもいい」

そう答えたことのない人の方が少ないのではないか。だけど、本当に何でもいいわけではない。

「ラーメン?」
「ラーメンの気分ではないんだよなあ」
「パスタはどう?」
「それもちょっと違う」

何だよ。何でもいいって言うなよ。全然何でも良くないじゃん。そんな会話をよくする。典型的な我儘人の特徴。とは言え、自分がそういう回答をするかは置いておいて、何でもいいけど何でもよくないことってあると思う。日々何でもいい。だけどこれは違う。なんか違うみたいな。素直に「何でもいい」と答えられる人はある意味自分の感性を剥き出しにできる人なのかなと少し思ってみたりもする。でも人から聞かれたときは何でもいいのその先をちゃんと伝えてほしい。

本当に何でもいい場合もある。例えば、方法は何でもいいからこの商品を売ってこい。などと言われ営業へ行かされることもあるだろう(たぶん)。だけど、それは明らかに放任主義で、相手に営業を押し付けるだけ。自分はナレッジも教えず、(そんな人はおそらくナレッジなんかも蓄えていない)ただ指示を出すだけ。要するに、何でもいいは人に押し付けているだけなのだろう。

何故か自分は何でもいいから好きにやっていいよと言われがちな人生だと、過去を思い返すとそう感じる。昼のメニューにしても、遊びに行く場所にしても、仕事の方針を決める時も、少しだけ決定権というのが一歩だけ自分に近い場所で立っている感じ。仕方なく決定する。決定を下すことはそこまで大した作業ではない。だが、決定には責任が伴ってくる。みんな分かっているのだ。ズルい。別に責任を取ると言っても大袈裟なほどでもないことばかりだが、「責任」という概念そのものに面倒臭さを感じる。社会において責任は誰もが取りたくないと思うもので、押し付け合いなんかもしょっちゅう発生している。誰かが責任を取らなければいけないのは重々承知しているが、思う。責任って面倒臭すぎる。

責任逃れの一種として、何でもいいが蔓延っている。何でもいいけれど、本当に何でもよかったらつまらない。「あれがいい」「それは嫌い」みたいな議論はあった方が面白い。何故なら自分が推薦する対象に対して深く考えることが出来るから。理由はこうで、とか。客観的に捉えたらこう思われるだろう。デメリットを押してでも伝えたい素敵なところがある、とか。

物事に対してもっと繊細に、好きなところを語ればいいと思う。バイアスを加えて、愛でていけばいい。そんな我儘であるくらいが丁度いいのではないか。人間。

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