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楽天IR戦記 第1章 TBSへの提案と財務危機(1)

転職初日 


「やあ、君がIRの人。今週はすごいからね、ハッハッハ」 

 楽天への転職初日、直属の上司である経営企画室長執行役員に連れられ、六本木ヒルズの18階のオフィスを一周した後に社長室に入り、代表取締役会長兼社長の三木谷浩史さんに挨拶したときに言われた言葉です。すごいって何のことだろう、と思いました。2005年10月11日のことです。
 経営企画室長が会議室に招き、「今週の予定」について説明をしてくれるそうです。今日はまず、オークション事業の新合弁会社の発表。2日後にはテレビ局、それもTBSの株式を15%以上取得し、共同持株会社化を通じた統合の提案発表を行うということでした。そして株式取得に伴う必要資金の1000億円近くをすでに銀行借入で調達し、近い将来株式による公募増資を実施して返済に充てる、という計画でした。驚きました。


 心の中では「聞いてないよ!」と叫びました。 

 インサイダー情報ですから入社前の人には教えられないことは重々承知しているものの、インターネット企業に転職すると思っていましたから、入った会社がテレビ局と関わるかもしれないとは、想定外のことでした。2カ月ほど前に内定をもらったときに、「実は今かなり大きな案件が水面下で動いていて、できるだけ早く入社してそれに加わってほしい」と言われていましたが、それは前月に日経の1面で報道された米国のマーケティング会社の買収のことかと勝手に思っていたのでした。

  想定外の展開は続きます。初日の午後5時近くになり、今日は早く帰れるのかと思ったところで、経理担当の執行役員から声がかかりました。
 「これからデューディリジェンス*で上に行くから一緒に来て」
上というのは、楽天がオフィスを構えていた六本木ヒルズの階上にあった外資系証券会社のことでした。楽天はIPOの際には日系の証券会社が主幹事となっていましたが、案件が大きくなると、リスク(と手数料収入)を分散させるため、複数の会社が共同で主幹事となることが通常です。 


 18階の楽天から47階ヘ。この階になると眺めがまるで違います。高過ぎて空しか見えません。窓に近づいて下に目線を落とさないと景色が見えないくらいの高さです。
  デューディリジェンスの要である今後の事業計画について話が始まりました。楽天側からは経理の執行役員のほか、私と同年代の公認会計士の資格を持つ財務の男性。さぞベテランかと思いきや、わずか1カ月前の入社。私と社歴がほぼ変わりません。


  会社の事業内容や経営状況をよくわかっているのは 3人中1人しかいない状況でも構わず話は進みます。

  先方からはバリバリ働きそうな若手が数名。きっと夜通し働く代わりに私たちの数倍の給料をもらっているに違いありません。エクセルのスプレッドシートを42インチくらいのディスプレイに映し出しながら質問が飛び、議論が進みます。
 およそ5時間が経過し、もうそろそろ帰らないと恵比寿駅11時6分発の湘南新宿ラインの終電がなくなると気が気ではありませんでしたが、議論は白熱中。入社1日目の新参者は何も言い出せず、初日から終電を逃し別ルートで帰宅しました。その後1年間ほど、この湘南新宿ラインの終電に乗れたのは数回しかありませんでした。

適時開示 


 転職3日目の午後。いよいよTBSの株式取得の発表です。記者会見の前に、共同持株会社化を通じた統合の申し入れについて長文のプレスリリースが証券取引所のシステム(TdNET)を通じ、証券取引所の規則に基づく適時開示*として発表されました。
 プロ野球参入でにわかに名が売れた設立10年に満たない新興企業である楽天が、マスコミの頂点で伝統ある放送局に対し、対等な形で事業統合を提案し株式を買い進んだことは、経営戦略的にも財務的にも大きな変化でした。

  私の役割は、TdNETに登録した後に紙に印刷したプレスリリースを東証の記者クラブである兜倶楽部*で配布するという入社3日目らしいものでした。これは「投げ込み」と呼ばれるものですが、靴箱のような木の棚の一段一段に報道機関の名前が張ってあり、その靴箱のような箱に印刷したプレスリリースを文字通り投げ込むことからそう呼ばれています。通常の適時開示は証券取引所の取引終了の午後3時を過ぎたらすぐに始まるのですが、今回は統合提案の正式な文書を先方に提出したのちに適時開示を行うという手順だったため、なかなか投げ込みを始められません。投げ込みは義務ではないのですが、兜倶楽部に詰めている記者のために行うことになっていたのです。

 ようやく統合提案の正式な文書をTBS側に提出し、適時開示が完了したとの電話連絡を受け、何十もある靴箱ひとつひとつに紙束を投げ込んでから、慌てて車で10分ほどの溜池山王の記者会見会場に入りました。ギリギリまで修正していたプレゼンテーション資料を使い、三木谷さんが統合提案の目的を語りはじめました。 


 会場にはメディアだけで100人近く入っていたと思われます。三木谷さんは詰めかけた記者たちに向かい、視線を大きく遠くに動かし、歩いたり手ぶりを使ったりしながら話を続けます。統合の目的は、「放送とインターネットの融合」。放送局のビジネスモデルとインターネットのそれは近い将来必ず交わるであろう。一方向でマスに情報を伝達するテレビと、双方向で個と個が情報を発信し合うインターネットは補完関係にあり、これらを統合することで視聴者・消費者に革新的なサービスをもたらすであろう。そして、どちらの会社の収益も大きく発展するという趣旨を話しました。今は信じられなくとも、その兆しは米国で現れており、10年も経たないうちに日本でも現実のものになるであろう、その前にTBSと楽天とで手を取り合おうではないか、という提案でした。

第1章(2)「大航海へのチャレンジ」に続く

*デューディリジェンス:一般的には、投資やM&Aなど の取引に際し、対象企業や不動 産・金融商品などの資産価値の調 査活動。本書では、証券会社が、 企業の新規発行をいったんすべて 引受け、投資家に販売するリスク リターンを適正に把握するための 事前調査活動。

*適時開示:証券取引所が、投資家が適切に 投資判断を行えるよう、上場企業 に課している上場会社の経営・財 務に関する重要な決定事実・発生 事実をタイムリーに(適時)かつ 公平に開示させる規則。業績およ び財政状態に与える影響によって 基準が設定されている。売上高プ ラスマイナス 10 %、利益プラスマ イナス 30 %のほか、内容により資 産や資本に関する基準も設けられ ている。本書では、この証券取引 所の規則に基づく開示を適時開示 と呼び、PRを含む一般的なプレ スリリースとは区別している。

*兜倶楽部:東京証券取引所ビルの地下 1 階 にある記者クラブ。株式や企業財 務を担当するマスコミの取材拠点 であり、上場企業が開示資料を配
布する投函ボックスや、記者会見 などが行える会議室がある。

IR(インベスター・リレーションズ)の経験などに基づいたテーマで記事を書いています。幅広い層のビジネスパーソンにも読んでもらえたら嬉しく思います!