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「石浦昌之の哲学するタネ 第3回 ソクラテス」

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OPテーマ いしうらまさゆき「明日のアンサー」(2015年4枚目のアルバム『作りかけのうた』より)
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【オープニング】
夜も更けて日をまたぐ時刻になりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?オープニングはいしうらまさゆきの2015年のアルバムより「明日のアンサー」という歌で始まりました。「日本初の出版社が運営するインターネット深夜放送・極北ラジオ」、先月に引き続き「石浦昌之の哲学するタネ」、今回は第3回目…ということで、私・いしうらまさゆきが哲学するための必要最小限の基本知識を「タネ」と呼びまして、混迷の時代にあって、答えのない問いに答えを求め続けるためのタネ蒔きをしようじゃないか、というのが、この番組のコンセプトです。

【愛知者ソクラテス】
「哲学」という営みの行く末を思うとき、ソクラテス(Socrates)[B.C.470?-B.C.399?]に思いをはせざるを得ません。哲学すれば哲学するほど、最後はソクラテスに戻ってきてしまうのです。このソクラテスこそが「哲学する」営みの正真正銘の生みの親です。

哲学は世界や人間についての普遍の真理、根本原理の希求です。自然哲学で探求されたアルケー(万物の根源)とは異なり、「世界とは何か」「自由とは」「正義とは」「人間はいかに生きるべきか」…それらの答えは容易に見つかりません。人の為す事、つまり人為(ノモス)なのだから人によりけりではないか…と言う人もいるでしょう。一人一人の「自由」「正義」「生き方」がある…既に紹介したソフィストは、そうした相対主義を説いた知者でした。しかし一方で、誰もが納得できる普遍的な「正義」や望ましい「生き方」がきっとあるはずだ…とは思えないでしょうか。人それぞれですね、で終わってしまうのは少々寂しい気もします。だとすると、万人が納得できる普遍的な「正義」、そして真に望ましい「生き方」とは何か…そうした答えのないものを、一人ひとりが希求し続けることが重要になります。これこそが知(ソフィア[sophia])を愛する(フィロス[philos])、つまりフィロソフィア[philosophia](愛知)という営みです(愛知県の「愛知」ですが、愛知県は「あゆち」という旧い地名に漢字を当てたものであるようです)。フィロソフィア(愛知)はソクラテスが用いたことで一般的になった言葉で、英語でいう哲学(フィロソフィー[philosophy])の語源となりました。ソクラテスは、知を解答として提示し説得するソフィストのような知者ではなく、知の希求者(愛知者)たろうとしたのです。哲学とは、哲学の「解答」を学ぶことではなく、各人が「哲学する」能動的な営みです。明治日本の啓蒙思想家・西周[1829-1897](福沢諭吉と同様、明治の啓蒙思想団体・明治六年設立の明六社の同人です)は「philosophy」を「哲学」と翻訳しました。当初、西が「希哲学」と翻訳したこともよく知られています(「希」は希望の「希」という字です)。人名にも用いられる「哲」という字には「知恵がある」という意味があります。「知恵を希求する」から「希哲学」…「philosophy」の原義にある「哲学する」という動詞のニュアンスをくみとろうとした名訳だと思います。名訳だっただけに、現在それが「哲学」と短縮されてしまったのは少々残念な気もします(これは日本人が主体的に「哲学する」ことをせず、学者の講じる「哲学」をありがたく受容し、称揚してきた態度に由来します)。

現在、学校現場では、新学習指導要領が2020年度から順次導入されることに伴い、全教科で主体的・対話的な学びが重視され、画一的な受け身の一斉授業は、答えのない問題に取り組む能動的なアクティブ・ラーニング型授業になるといわれています。これは、明治以来の学校教育の大改革でありまして、当然一点刻みで重箱の隅の知識を問う大学入試も、様々な資料を読み取り、知識を活用し、思考・判断する出題に変わるという方向性が出されています。これは私に言わせれば、学校教育の総「哲学」化です。しかし、本当に哲学する主体になれるのかは、わかりません。何しろ明治以来の日本人の宿題でもあるからです。

さて、アテネに生まれたソクラテスです。母は助産師(産婆)でした(これも後に彼の哲学の方法論と関係します)。妻は悪妻伝説のあるクサンティッペ(Xanthippe)[生没年不詳]です。ところで、ソクラテスの肖像を見たことがあるでしょうか。彫像などは一般的に少しは美化して造られるものですが、彼はどうでしょう。ギリシア彫刻に一般的に見られる、りりしい風貌の男性像とは似ても似つきません。頭は禿げ上がって、団子鼻で、ひげ髭を蓄えた無男…私は別に悪口を言っているのではありません。実はその風貌も彼が死刑判決を受けた最期に関わってくるのです。この風体でいつもはだし裸足、同じ服を着て、広場(アゴラ)で論議にふけっている…一種、異形の人だったことは想像がつきます。その一方で話せば聡明で、多くの若者から慕われていました。ただ、妻のクサンティッペから慕われていたかというと、後世に伝えられるところではそうではありません。あるとき、甲斐性なしの夫に激しくまくしたてた揚げ句、黙ったままなのを見て、コップの水をひっかけました。ソクラテスは「雷の後には嵐がつきものだ」と言ったそうです。また、「ぜひ結婚しなさい、よい妻をもてば幸せになれる。悪い妻をもてば私のような哲学者になれるだろう」なんていう名言もあります。
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ジングル1
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【「無知の知」】
ソクラテスの哲学の営みのきっかけになるのが、デルフォイの神託事件です。ソクラテスの友人だったカイレフォン(Chaerephon)[B.C.470/460-B.C.403/399]が古代ギリシアの聖地デルフォイのアポロン(予言の神)神殿で、巫女(硫黄性ガスを吸って神懸りしたそうです)から神託(神のお告げ)を受けました。当時、神託は重要な意味合いをもっていました。それによると「ソクラテス以上の知者は存在しない」…しかも三大悲劇詩人として知られるソフォクレス(Sophocles)[B.C.496?-B.C.406]やエウリピデス(Euripides)[B.C.485?-B.C.406]より賢い、というのです。ソクラテスは己の無知を信じていたので、おかしなことだ、と思います。そこで当時、知者と呼ばれていた人々を訪ね歩き、自分以上の知者が本当に存在しないのか、確かめに行くのです。当時、知者と呼ばれていたのは主にソフィスト、詭弁を弄する弁論術を講じた職業教師です。ソフィストに尋ねてみると、彼らは事物の本質について、知ったかぶりばかりで驚くほど何も知らないことがわかりました。ちなみに事物の本質とは、人間性にとって重要な究極の知であるカロカガティア[kalokagathia](善美の事柄)のことです。いわゆる「真・善・美」ですね。古代ギリシアでは善いものは正しく美しく、悪いものは不正で醜い、と考えられていました。ソクラテスはこのカロカガティア(善美の事柄)を知ることで、魂を優れたものにできると考えていたのです。

「この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男も、わたしも、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があることになるらしい。つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。」(『ソクラテスの弁明』)

ソクラテスは、ソフィストの知ったかぶりに触れて、このように考えました。「自分は知らないということを知っているだけ、ソフィストよりはましである」…ちょっと皮肉な物言いなのですが、これがソクラテスの「無知の知」です。この態度が彼の哲学希求のスタートラインになるのです。ちなみにデルフォイのアポロン神殿には「汝自身を知れ」という碑文がありました。これは「分をわきまえろ」「身の程を知れ」といった意味だったのですが、ソクラテスはそれを「無知の知を自覚せよ」と捉えて、自身のモットーとしました。

【ソクラテス・メソッド】
それからのソクラテスです。積極的にソフィストら知者を論駁してかかります。彼が用いたのは問答法(ディアレクティケー[dialektike])という手法です。自分が知者だと思い込んでいるソフィストを「無知の知」に至らしめるには、対話(ディアロゴス[dialogos])(「ダイアログ[dialog]」)の語源です)の実践が必要でした。ちなみに英語の「di」や「bi」は「2」を表す接頭辞です(「bicycle」なら「2つのサイクル」、つまり「(2輪の)自転車」という意味です)。そうなると、対話(ディアロゴス[dialogos])とは「ロゴス[logos](言葉・理性)」を(「dia」ですから)「2人で」分かちもつ、という意味になります。ソクラテスは対話の中で「~とは何か」をひたすら問い続けます。しかも空とぼけた態度で、何も知らないフリをしてソフィストに近づくのです。「何も知りませんが教えていただけますか」「いいだろう」「ところで嘘をつくのは悪いことですよね」「もちろん」「では病気の人に、苦い薬を苦くないよ、と言って飲ませるのは悪いことですか?」「それは悪くない」「あれ?あれれ~?さっきあなた、嘘は悪いことだって言いましたよね~?おかしいな~」とこのように、ちょっと嫌味な迫り方をしたんです。このようにソフィストの矛盾を指摘して、無知をさら晒す手法をエイロネイア[eironeia]といい、これは「アイロニー[irony](皮肉)」という言葉の語源になりました。そうして相手の「思い込み(ドクサ[doxa])」を廃し、「無知の知」に至らしめることができれば、相手に真の知への憧れ、つまりフィロソフィア(愛知)がおこるのです。ちなみにソクラテスの問答法を「ソクラテス・メソッド」といいます。就職試験の圧迫面接がまさにそのやり方です。

ソクラテスは問答法を重視したため、ソフィストのように「これが知です」と示すことは一切しませんでした。ゆえに著書を一冊も残していません(弟子のプラトン[B.C.427-B.C.347]が書き残したダイアログ形式の「対話篇」に登場するソクラテスの姿から、彼の思想を推測するほかないのです)。そんなソクラテスの手法は、子どもがお腹から出てくるのを手助けする助産術・産婆術になぞらえられています(ソクラテスの母の職業が助産師・産婆でした)。『ハーバード白熱教室』が2010年にテレビ放映されて一躍有名になった、ハーバード大学教授のマイケル・サンデル[1953- ]の人気講義「Justice(正義)」は、生徒にマイクを渡しながら活発なやりとりが展開されるという、まさに問答法スタイルの授業です。それに比べて一方的に喋っている私の授業などはソフィストか凡人そのものですね。「教育[education]」の「educate」が「引き出す」という意味だったことも思い出しつつ、反省してしまいます。
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~お便り紹介~
弾き語りコーナー:いしうらまさゆき「なんでこんな目にあわなくちゃならないんだ」
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ジングル2
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【徳とは何か】
ソクラテスが問答法で問うた内容を見てみると、徳(アレテー[arete])に関して多く語られていることに気がつきます。徳とは元来、「優秀性・卓越性・よさ」のことです。馬の徳は足が速いことですし、ナイフの徳はよく切れること、になります。では人間の徳は…というと、ソクラテスは魂が優れていることだと考えました。そして、弟子のプラトン同様、魂を優れたものにする「知恵」「節制」「正義」などという人間の徳を定義したのです。人間としてどうあることが善いことで、どうあることが悪いことなのか…ここに倫理的な問いかけが生まれていることが見て取れるでしょう。ソクラテスによると、カロカガティア(善美の事柄=つまり知)を知ることで、魂が磨かれて、魂が優れているという徳が実現します(知徳合一)。そうした「善さ」を知っていれば、自然と正しい行いが実行できるようになります(知行合一)。そして、徳を実践すれば、そこには真の幸福があるのです(福徳一致)。「いかに生きるべきか」「どうすれば幸せになれるか」…こうした人生の普遍の価値を語ったところもソクラテスの斬新な点だと思います。

ところでソクラテスがこうした考えをもつに至ったのは、先月のピュタゴラス[B.C.6C?]と関係があります。ピュタゴラスは古代ギリシアの(ディオニュソス・)オルペウス教に影響され、自分の肉体に閉じ込められた魂を清いものとして神的世界に救い出し、輪廻から解脱することを目指していました。ソクラテスもオルペウス教の影響を受け、カロカガティアを知ることで、魂を神的世界に救い出せると考えました。もし不正や不善を好めば、魂は不完全な肉体の牢獄に閉じ込められて輪廻を繰り返し、神的世界に救い出すことはできなくなります。こうした話を、科学教の信者であるところの現代人なら荒唐無稽に思う人もいるでしょう。それでも、「嘘をついてしまい心が痛んだ」とか、崇高な行いに触れたことで「心が清らかになった」…なんて経験はあるのではないでしょうか。ここでいう「心」とは「魂(プシュケー[psyche])」のことです。現代人同様、「心」なるものの存在を人々が自覚していたということです。「魂(プシュケー)」は「心理学(サイコロジー[psychology])」(プシュケー+ロゴス[logos]です)や「霊能者(サイキック[psychic])」の語源にもなっています。ソクラテスやプラトンを「文学の一種だ」などと言い放つ現代の哲学者もいるのですが、このような表現をすることで、言葉にするのが難しい自分の心の中の感情が腑に落ち、自らを見つめ直し、人生の意味を問うことができるのです。

【魂への配慮】
片っ端からソフィストを論破していったソクラテスです。とうとうアテネのデモクラチア(民主政治)の下で裁判にかけられ、死刑を求刑されます。罪状は国家の認めない新奇な神「ダイモン[daimon]」という神霊を信じたことと、アテネの青年たちを堕落させたことにありました。ソクラテスは不正・不善を侵さぬよう、ダイモニオン[daimonion]に従っていました。「ダイモニオン」とは「ダイモン的なもの」…これは「善き知性の声」「良心の声」のことです。ちなみに「daimon」は英語の「デーモン[demon](悪魔)」の語源です。語源から考えると「デーモン」とは絶対悪というより、民主主義という数の政治、多数決によって「デーモン」とみなされてしまったもの…と理解することもできますね。一方アテネの青年たちを堕落させた、というのは、古代ギリシアの同性愛の風習によるものです。聡明なソクラテスの周りには多くの美しい若者が集結していました。しかし異形のソクラテスの風貌と美しい若者はそぐわない…古代ギリシアでは善いものは正しく美しいと考えられていたのです。ちょっと可哀想ですが、ソクラテスが疎まれた一因です。それより何より、当時知識人として尊敬されていたソフィストを次々に論破して恥をかかせたことが大きいでしょう。舌鋒鋭い哲学者は恨まれるのです。政治的には、衆愚政治化し民衆扇動者(デマゴーゴス〔デマゴーグ[demagogue]〕)が跋扈するデモクラチア(民主政治)を批判する貴族派(スパルタ的な少数寡頭政治を支持していました)に近いソクラテスを潰すための、民主派の策略と見る向きもあります。

いずれにしても、死刑判決を受けたソクラテスです。周囲は嘆き悲しみ、悪妻クサンティッペですら最後は動揺するのですが、ソクラテスは全く動じず、死を恐れる様子もありませんでした。親友のクリトンは、お祭りで30日間死刑が延期されたことを受けて脱獄を勧めますが、ソクラテスは応じません。ソクラテスはペロポネソス戦争(民主政を採るデロス同盟の盟主アテネと、寡頭政を採るペロポネソス同盟の盟主スパルタとの争いでスパルタが勝利しました)に3度従軍したほどの愛国者でした。ソクラテス・プラトン研究の大家・田中美知太郎先生が戦後日本の右派論客だったことなども思い出されます。いずれにしてもソクラテスは、たとえ不当な判決であったとしても、アテネの国法に背き、不正・不善を侵すことで魂を汚したくはなかったのです(ソクラテスが「悪法も法なり」と言った、とされていますが、それは誤りです)。プラトンの『ソクラテスの弁明』では裁判で自身の意見を信念のままに述べる感動的な様子が描かれており、不正・不善を侵して魂を傷つけぬよう配慮することの必要性(魂への配慮)が説かれています。プラトンの著作『クリトン』にはこんな一節もあります。

「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よ善く生きるということなのだ。」(『クリトン』)

当時のポリスでは、人々は名誉や地位、金銭を追い求め、堕落していました。ソフィストのまやかしの知恵がそうさせてしまったのです。現代の民主主義社会を生きる私たちだって同じ様な状況だといえるでしょう。しかしソクラテスは、名誉や地位、金銭よりも「善く生きる」ことを選んだのです。「生き方」という「人為(ノモス)」の問題に対して、相対主義で解決せず、普遍的・絶対的な善さを追い求めたのです。ちなみに「善く生きる」をラテン語に訳すと「ベネッセ」という教育関連企業の名前になります。

結果的にソクラテスは悲しむ弟子たちや妻を前に、毒杯を飲みます。「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」、と言って…。つまり、カロカガティア=知を希求すること(フィロソフィア=哲学)によって、肉体という不完全な牢獄から魂を神的世界に救い出せるのだから、死は魂にとって善いことだ、と言って周囲を慰めたのです。魂は神的世界に救い出され、生き続ける(魂の不死)…死をも恐れず「善く生きる」ことを求めたソクラテスの信念には心を動かされずにはいられません。プラトンの『パイドン』によると、遺言は「クリトン、アスクレピオスに鶏をお供えしなければならない。忘れないで供えてくれ」というものでした。アスクレピオスはギリシア神話の医術の神です。その神に鶏を供えるのは、病気回復の暁です。死ぬことで人間の災いが回復し、魂が清らかになることを最後まで信じていたのです。

では最後になりますが、いしうらまさゆき4枚目のアルバム『作りかけのうた』より、「大切なのは…」という曲を最後にかけたいと思います。昔の教え子でギタリストになった岡崎伽南くんが素敵なエレキ・ギターを入れてくれています。

---------------------------------------------------------------------------------------EDテーマ いしうらまさゆき「大切なのは…」(2015年4枚目のアルバム『作りかけのうた』より)
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【エンディング】
ではそろそろおしまいのお時間となりました。次回はプラトンを取り上げる予定です。ちなみに本日の記事は明月堂書店ホームページ、そしてnoteというサービスを使ってアップロードしていますので、そちらも是非ご覧になってください。極北ラジオですが、近畿大学で教鞭をとられており、最近主著の『近代化のねじれと日本社会』の増補新版が批評社から刊行されました、社会学者竹村洋介さんの「夜をぶっとばせ!」もぜひチェックしていただければと思います。まだの方はアーカイブでも聞けますので、明月堂書店のHPならびに極北ラジオのHPをチェックしてみてください。

最後に新刊のお知らせです。金沢大学教授・哲学者の仲正昌樹さんの「FOOL on the SNS―センセイハ憂鬱デアル」、絶賛発売中です。続編も出るという噂も聞いております。「SNS言論空間の吹き溜まりを徘徊する〝末人論客〟に情け無用の真剣勝負!」を繰り広げる「FOOL on the SNS―センセイハ憂鬱デアル」、詳細は明月堂書店ホームページをごらんください。以上、明月堂書店の提供でお送りいたしました!また次回お会いしましょう!

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