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フリースクールで働いてみて

先日、とある大きなフリースクールでの今年度の業務が終了しました。

働けば働くほど嫌いになっていく空間ってあるんやなあと実感しました。
最後はお金のためだけに無理して出講してたようなもんですが、
10代の子たち相手に、学生時代特別養護老人ホームで落語をする度に抱いてたシャドウボクシング感は最後まで全く無くなりませんでした。
打っても何も響かない。
フリースクールは社会に必要だと思いますが、私が働いた場所は、一言でいうなら、
「お金大好きな集団」以上ー、です。
学校そのものがそうだからどうしようもないと思う。
フリースクールという名の鼠講集団。
そこには何の理念もなくて、将来楽してお金を稼ぐためにはどうしたらいいか、
とかどうやってうまく投資活動したらいいかとか、そんな話が大好きな、鼠講集団の巣窟といっても過言ではありませんでした。
お金稼ぎの方法を学ぶことは生きていく上で大切です。
でも、10代のうちからそれを一元的な価値観として持ってるのってどうなんだろうとも思います。
そんな空間で、スクールが用意した劣悪な教材を垂れ流して30分笑いの来ない前座噺を惰性でやってた自分が嫌でした。
「郷に入らば郷に従え」という言葉がありますが、入れない郷もあるのです。
生きる次元が異なる空間では対話も無理だと悟った切ない経験でした。
フリースクールに来ている他の教師や、常駐の職員とも共通の言語コードを持ち得ないから、
私は最後は言葉を捨て、沈黙を続ける事で最後の自己防衛としました。

漫談で一番学生が聞いてくれたのは、お金がらみの話。
フリーランスの仕事の取り方とか。
いかに自由に好きなことして生計立てるかって話とか。

くだらんと思う。
自分の短い物差しで役に立つか立たないかの基準を勝手に作って、
お金になるかならないかの基準が行動規範になるなんて、
しょうもなさすぎると思う。

自己肯定感はめちゃくちゃ低いくせにプライドは高い奴ら。
しかも権力には従順な羊。
権力に疑問を持つ能力など無い。
過度に溢れる情報は自己肯定感を下げるものでしかないから、
大人がが与えてくる価値観からもっと自由になればいいのに。

「こいつの授業は聞く価値があるかないか」とかも判断する能力が無い集団の前では、
私もプレッシャーは全くなくて、
1分たりとも予習なんかしていない。
楽だし、虚しい時間でした。

毎回脳みそが蕩けていく恐怖と共にお金のためだけに、月数回働いてー、
社会貢献どころか、
鼠講の巣窟で単位習得の手助けをしただけでした。

このくらいの寒い季節に、お金のためだけに工場のアルバイトで、何かわからない物体を延々に集めていた事を思い出しました。
これって、シーシュポスの神話とも違うし、なんて言えばいいのか分かりません。
でも、教育の仕事に携わると、働く場所によってはしばしば似たような思いに駆られる事はあります。
そこに在籍する学生ではなく組織の問題です。

働くなら、まだ、「おい、なんか面白い事言ってみろよ」的な辛辣な目で臨んでくる学生の前でやる方が、絶対楽しいと思います。
学問の世界を冒涜しているお金が大好きな職員たちと、その鼠講組織の中で権力に従順な羊たちに語る言葉を持ち得ません。
そこには立場の交換可能性もありません。
戦う気にもなれない場所は、生きる気力をもどんどん奪っていくのだと思います。

一応、今年度の出稼ぎが終了したので、思いを綴ったら、やっぱり、見事にネガティブな言葉しか出てこなかったですね。
私自身が札びらで頬を叩かれて、出稼ぎ行ってた当事者なのですが。これって次元は違うにしても、米軍基地問題とか原発問題と通底するような気もします。そこから脱却する方法を考えていかないといけないのは確かです。
(札びらっていうほど貰ってませんけど。)

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