『意味がない無意味』刊行記念 現実と身体 千葉雅也×入不二基義トークショーに行ってきた。の感想。

『意味がない無意味』刊行記念 現実と身体 千葉雅也×入不二基義トークショーに行ってきた。
http://www.kawade.co.jp/news/2018/12/121-3.html

 結論から言って、とにかく非常に面白かった。そしてまた結論から言って、もしかしたら「意味がない無意味」における身体論は、永井均の〈私〉を身体論的に読み替える道筋を示しているかもしれない。だとすれば画期的である。しかし永井的〈私〉は、身体の問題というよりは魂の問題と言ったほうが理解しやすい。彼の定式によれば、この世界の中には殴られたら現に痛みを感じ、その目から現に世界が見え、現に音が聞こえる特異な在り方をした存在者がなぜだかただ一つだけ存在している。それが〈私〉だ。
 例えば次のように考えてほしい。私達は、誰もが「私」であるという反省的自己意識を持っており、世界は「私」に中心化されていると語ることができ、殴られたら現に痛いと主張することが出来る。「私」はそうした特徴を持っている。しかしそれらの特徴は誰にでも一般的に当てはまるのであれば、ではそのなかで一体誰が現に〈私〉であるかをどのように識別することが出来るのだろうか? 「私」は自己意識を持っているという理由も、世界が「私」に中心化されているという理由も、あまつさえ「私」は心理的・身体的連続性を持っているという理由も使えない。なぜならそれは誰もが同じようにそうであるからだ。ここでは、なぜか現にそうだったとしか言いようのない「現実性」の水準を持ち出さざるを得ない。
 本日のトークで話されていた、〈身体〉が全く破壊的に無意味に変貌しても生き延びてしまうところに〈身体〉の「現実性」を見出す議論は、自然法則や様々な理由付けを欠如させていても、ただあることAがただあることBへと可塑的に変化しうることを意味している。それが「事実性」と区別される「現実性」の次元である。事実性において、AからBへの変化は、「AはBでなくてもよかった(CでもDでもよかった)にもかかわらずBである」という様相論理空間に位置づけられる。しかし、「現実性」において、Aはただ端的にBに変化するのであって、他の可能性はそもそもないのだ。逆に言えば、その可能性の空間そのものが「現実」なのである。
 このとき、端的な変化の最もたる例は、なぜか端的に渋革まろんが千葉雅也になってしまっている事態だろう。その変化を私達が理解できるかどうかはともかく(その論点については永井の著作『私・今・そして神』を参照されたい)、それは確かに身体的な変化とも言いうるが(超高度な医療技術によって渋革まろんの外見を千葉雅也にそっくりに改造する)、反対に各々の身体には一切変化がないどころか、性格や記憶といった精神のレベルでも全く変化がないにもかかわらずなぜか渋革まろんの〈私〉が、千葉雅也になってしまっているという事態も想定可能だ。なぜかあるときに気づくとそこから現に視界が開ける身体が千葉雅也になってしまっているのだ(だから、渋革まろんから千葉雅也への端的な「移動」においては、何が変化したのか誰にもわからない)。だとすれば、これは身体の問題というより〈魂〉の問題である。

 また、プロレスとレスリングの差異と同一性の話も面白かった。批評はプロレスで、哲学はレスリング。まったくそのとおりだと思う。レスリング行為が両者に通底しているとも言葉が交わされていたが、よくわからなかった。しかし、先の現実性と事実性の区別は、レスリングとプロレスにも適用可能であるのではないか。とも。
 つまり、レスリング=哲学は非人称的であり、プロレス=批評は人称的なのだ。批評というか世の中に対して積極的に価値ある言説を紡ぐ行為は、みずからの正しさを主張して何らかの根拠を提示することで社会・相手を説得するのだから、そこには「私」をアピールすることが、つまりは「誰が」言っているのかということが付随せざるをえない。それは本質的にパフォーマティブ=演劇的な行為(現れのテクネー)なのだ。プロレス=批評の成立のためには、キャラクターや物語が本質的な構成要素でなければならない。なぜなら、「誰」であるか(キャラクター)を示す複数の個人が、どの価値観(世界解釈)が最も説得的であるかを競い合うことで、複数的な個による共通の物語を紡いでいくことがプロレス=批評には求められるからだ。そうした競い合いが活性化するのが「危機」なるときである。
 しかし、レスリング=哲学ではむしろ人称が邪魔になる。哲学は常に共同探求なのであって、闘争することではない。なぜなら哲学は真理の追求だからである。真理は誰が言っているか、その立場や歴史とは無関係に真理だ。少なくとも、そのような真理のみを絶対とする態度を指して「哲学的」と言う。それはレスリングのように力の拮抗状態を創り出しながら「遊び」続けることを行為の本質とする(だから哲学者が政治に関係するのは世の中に良い影響を与えない。真理が唯一であれば全体主義であるし、なにより真理が「善」であるとは限らないからだ)。

 

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渋革まろん

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