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LOCUST創刊号に寄せて/ロカスト旅行はあなたを殴る、あなたはめまいがする、そしてイナゴの意味を知る

 11月25日の文学フリマ@東京にて、LOCUST創刊号が発刊される運びとなった。「LOCUST」(以下、集団としての「LOCUST」は「ロカスト」と表記)はゲンロン×佐々木敦 批評再生塾三期生を中心にして結成された「批評」と「旅行」のクロスポイントを目指した批評/旅行誌だ。言い方を変えるなら、「旅行」を擬態した批評誌であり、なおかつ「批評」を擬態した旅行誌である。
 その「LOCUST」の現物がちょうど昨日、手元に届いた。僕はそれを手にとり、パラパラとめくってみたのだが、どうにも「変」な雑誌が出来たものだと思った。そこで色々と思うことがあったので、その所感を文章にしたためてみたい。あくまで所感なので、「LOCUST」がどんな雑誌であるかについては、編集長・伏見瞬の巻頭言を参照してほしい。WEBで公開されている。

『LOCUST』巻頭言
http://iwasonlyjoking.hatenablog.com/entry/2018/11/18/233506

 さて、「LOCUST」を手に取り、僕は少しばかり驚いた。それが、あまりにも純粋な「批評誌」としか言えない雑誌だったからだ。だが、急いで付け加えておくべきは「LOCUST」がまごうことなき純粋な「旅行誌」でもあるということだ。それは純粋な「批評誌」であり、なおかつ純粋な「旅行誌」でもある。これはどういうことだろうか?
 ある意味で、旅行誌と批評誌は相反した情報を扱う媒体だ。一般的に旅行誌は旅先のどこに行くべきスポットがあるかを伝える「観光ガイド」の役割を果たす。その機能は、行くべき場所を整理整頓して効率的に伝達することにある。つまり、旅行誌は旅先で人が迷うことなく、その土地の「注目すべき場所/人/もの」へと辿り着けるように設計された媒体である。
 しかし、批評誌は、合理的・効率的に情報を伝えることを目的としない。むしろ、「注目すべき」と思われているものに疑問符を突きつけ、思いもよらない新しいモノの見方やパースペクティブを再設定することに、批評の機能はあるだろう。
 だとするならば、批評の眼目は届ける情報を「遅延」させることにある。僕たちが自然に共有している常識や価値観は、本当にそれ一つしかないものなのか。もしくは、その常識によって見えなくなっている別の世界、別の価値観があるのではないか。そうした困惑や戸惑いによって生じる「混乱」を整理することなく、しかしその混乱の意味を明晰に伝える技法(テクニック)。これが批評であり、だから批評誌とは、ただ人々の思考に混乱をもたらす傍迷惑なアクションなのだ。
 情報を効率的に共有するための媒体である「旅行誌」と、情報を遅延させ混乱を生む媒体である「批評誌」は、相容れない。言い換えるなら、「旅行誌」は多数の人々の価値観をくっつける接着剤だが、「批評誌」は多数の人々が共有した価値観に亀裂を入れる電動ドリルである。だから、批評は常に暴力であり、批評を読むことは、批評に殴られることを意味している。それを読んでしまったら、もといた居心地のいい場所には戻れない。人はそこから吹き飛ばされ、孤独になる。そうした〈恐ろしい〉読み物が批評なのだ。
 僕にとって「LOCUST」が価値を持つとするならば、それは人と人、人と土地をつなげる「接着剤」であり、それでいて、人と人、人と土地のあいだに亀裂を入れる「電動ドリル」でもあるという、このアンビバレントな二重性にあることは疑い得ない。

 例えば、今号は千葉内房地方を特集している。人によってはそこで疑問符がつくだろう。なぜ内房なのかと。正直なところ、ロカストが千葉内房を旅先に選んだ理由は、ロカスト参加者に小川がいたからにすぎない。そこは彼の地元であり、僕たちは彼の地元に遊びにいったのだ。この事実だけをとるならば、ロカストメンバーによる旅行(以下、ロカスト旅行)は、仲間内で一つの体験を共有することを目的とした、これ以上ないほどベッタリとした接着剤だと言えるだろう。
 しかし一方で、ロカスト旅行の参加者は、小川にアテンドされた木更津や館山といった土地に容赦なく電動ドリルで穴を開ける。収録された論考を一読していただければ、その意味はすぐにおわかりいただけると思う。
 太田充胤はロカスト旅行の道中で体験した海を渡るワクワク感が、アクアラインという「橋渡り」が魅せる夢であることを暴いてみせることから「観光」の意味を再考する。谷美里は木更津の平和な憩いの場・山崎公園(旧山崎医院)が「光クラブ事件」を起こした山崎晃嗣の実家であったことに着目し、東京の「偽悪」から逆照射される「自然体」として読み直す。イトウモはジャック・ラカンが差し出した「享楽」の概念を鋸山の千五百羅漢像と論考を書いている最中に骨折した仙骨の激痛を混ぜ込むことで身体的に読み直し、旅行に出ることの「危険な欲望」を語り出す。そして、北出栞は千葉県出身のライトノベル作家・渡航らが脚本を手がけたアニメ『クオリディア・コード』の読解から、「内房」を「ウチボウ」へ変容させる可能性を浮上させる。
 「LOCUST」が旅行誌であるとするならば、これらの論考は全く不可解な産物だ。なにしろ、どれ一つとして「内房に行くべきだ」とは主張していないのだから。それらは「内房」の価値ある観光スポットを教えない。しかし、それでも読者が内房に足を運びたくなったとき、彼/彼女はロカストという恐ろしき〈イナゴの群れ〉に襲われてしまった、すなわち批評が〈駆動〉してしまったのである。
 手元に届けられた「LOCUST」のページを繰った僕は「LOCUST」が旅行誌であり批評誌であるとは、そういう意味だと理解した。それは身体に傷がつくとカサブタになりもう一つの皮膚が生まれるように、内房に無数の穴を開けることで、新たな内房の皮膚を再生するような、批評的な接着剤なのだ。

 思い返してみるなら、僕は小川をリスペクトしているが、だからといって内房に興味や関心があったわけではないし、実際、いまもそれほどに愛着を感じているわけではない。確かにロカスト旅行を気楽な気持ちで楽しんではいたが、彼らの論考を読むことで、むしろ彼らが僕とは全然違う風景を見ている相容れない異物であることを知る。だからロカスト旅行とは、つまり〈群れ〉という装置が織りなす作用とは、〈私〉が見ている風景だけが全てではないことを教える、〈私〉にめまいを起こすパフォーマティブな相互介入なのだ。そのなかで、〈私〉は内房の風景がブレブレにぼやけて多重化していくことを体験する。それは「愛着」とは別の形で内房とつながる方法だ(小川の〈擬〉東京論が「愛着」とは別の形で土地を言説化する方法の提案であることにも注目してほしい[※])。
 繰り返しになるが、そこでもし内房に身体が引っ張られてしまう意識のラインを感じてしまったのであれば、そこに宿るものが「批評」であり、僕が「LOCUST」を純粋な批評誌だと感じたのも、各々の論考が論壇内でのパフォーマティブな位置取りを考慮せず、ただそのことのためだけに駆動していたからにほかならない。そして、新たな出逢いをもたらす「旅行誌」とは、本来的に「批評誌」でなければならないとも感じられたのだ。
 これはもちろん、「東京ディズニーリゾ―ト」にスポットを当てた第二特集にも同様に当てはまる。谷頭和希が超アクロバットな形式で綴るディズニーランドの「ナショナリズム」論からはじまり、『イッツ・ア・スモールワールド』に内在する「想像された故郷」の移民的想像力を洞察する伏見瞬、そしてディズニーランドとアニメーションを題材に異質なものが調停されることなく響き合う「ポリトーナリティ」を見出す灰街令と、完璧に自立しているように見えるディズニーのテーマパークにひび割れを入れていく。

 こうしたロカストの実践は、批評再生塾という場をきっかけに生まれた。だからこれは、批評再生塾が持っていたであろうポテンシャルをどこまで遠くまで飛躍させることが出来るのかを占う実験でもある。そう思うと、ロカストという〈イナゴの群れ〉が一体、どこへ向けて/どこまで跳躍できるのか、そのあり方から、この世界/社会との新たな関係の結び方への思わぬ切り口が見つかるのではないかと期待も膨らむ。

 そう、僕はいま「LOCUST」に確かな手応えを感じているのだ。

※小川和キは神奈川や千葉といった「東京」とのあいだに複雑な権力関係が張り巡らされた場を〈擬〉東京と呼び、新たな都市文化批評のあり方を提示した。詳しくは論考を実際に読んでいただきたいが、磯部涼『ルポ川崎』や田原総一朗「塗りかえられる街の風景」が「ルポルタージュの呪い」に足を取られて〈擬〉東京を「下層=スラム」の「リアル」として無意識に読んでしまうことに、小川は批判的な目を向ける。しかし僕が思うに、「ルポの呪い」とは土地への「愛着」がゆえに土地の風景を「リアルらしく」切り取ろうとしててしまう「引き裂かれ」を意味するのではないか。小川はそのように明言してはいないが、だとするならば、小川はここで、地元への「愛着」から身を引き剥がしたうえで、〈擬〉東京をフラットに読み直す方法(下町論)を構想しているのだと思われる。


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