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ユダヤ人がみる世界

 全世界に占めるユダヤ人人口は0.2%にもかかわらず、少し考えるだけでアルバート・アインシュタイン(物理学者)、フェリックス・メンデルスゾーン(作曲家)、カール・マルクス(哲学者、経済学者)、レフ・トロツキー(ロシア革命の指導者)、ジョージ・ソロス(投資家)、スティーブン・スピルバーグ(映画製作者)などのユダヤ人が思い浮かびます。ノーベル賞の歴代受賞者でもユダヤ人が占める割合は20%にのぼります。数え上げるときりが無いので割愛しますが、各界で名を成した人を数多くユダヤ人社会は輩出しています。
これはユダヤ人だから優秀という事では無くて、家庭に於いて或いは学校教育の場でユダヤ教徒は、タルムードを徹底的に議論し学びます。之に依って物事を深く考え真理を理解し人生に打ち勝つ力を得ます。(ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰する人です

上記以外にもユダヤ教徒であるかどうかわかりませんが、ダスティン・ホフマン(俳優)、カルバン・クラーク(フアション)、ボブ・ディラン(フォーク・ロック歌手)、マーク・ザッカーバーグ(Facebook)、ハワード・シュルツ(実業家 スターバックス)、アイザック・アシモフ(生化学者)、リーバイ・ストラウス(アパレルメーカー)、レイ・クロック(マクドナルド)、アドルフ・サイモン・オックス(ニューヨークタイムズ)、ミハエル・コーガン(タイトー/ゲーム機器)やウラジーミル・プーチン(ロシア大統領)ウォロディミル・ゼレンスキー(ウクライナ大統領)なども祖先はユダヤ人です。


日本人とユダヤ人の因縁

 第二次世界大戦下において、リトアニア領事代理の杉原千畝は苦悩しつつもポーランドからリトアニアに押し寄せたユダヤ人難民に日本へのビザを発給します。日本もまた、アメリカが排日移民法で日本人を排斥するなど、差 別の対象とされており、日本人にとってユダヤ人の難儀は他人事とは思えぬ事でもあった。

 日本の命運をかけた日露戦争において、日本政府は高橋是清に戦費調達を命じる。ニューヨークでの外債募集に失敗した後に、ロンドンでHSBCのロンドン支部長であったキャメロン(キャメロン首相の高祖父)を中心とする金融団から目標額1億円の半分(500万ポンド)の融資取り付けに成功します。
その祝いの夕食会で偶然高橋の隣にニューヨークのユダヤ系のクーン・ローブ商会代表のジェイコブ・シフが座ります。翌朝シフは残り(500万ポンド)の資金の調達に応じることを約束してくれます。それ以後もシフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけ2億円の戦時国債購入を実現してくれました。
後のシフ回想録で融資の理由は「ポグロムを始めとするロシアの反ユダヤ主義に対する報復であり、そのロシア帝国に対して立ち上がった日本は神の杖である」と書いています。なお、クーン・ローブは1977年にリーマン・ブラザーズに合併されました。
戦争遂行に要した戦費は約20億円(今のお金で約2兆6000億円に相当)はほとんど公債によってまかなわれた。1905年度の政府歳入は約4億円でした。日露戦争に端を発する返済を完了したのは1950 年代です。

 学術的な検証という意味では問題があるが、失われた10支族のうちの第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が、日本に移住したという説がある。中国の開封にはユダヤ人街があったことは確認されており日本への移住も十分に可能性の有ることです。
 朝廷に協力するなど国造りに大きく貢献した渡来人の秦氏は、古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説は国際的にも有名だった説である。
 富山県には塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く目が鋭くその人達がそうでないかと言われた。県東部にはアイヌや朝鮮、中東の言葉も見受けられる。
 樺太から渡来した北海道のアイヌ人は、ヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。

ユダヤ理解の基本知識

中東地区

この地域のパレスチナには世界三大宗教の2つ、キリスト教、イスラム教、そしてこれらの派生元のユダヤ教の聖都エルサレムが有る。
 歴史に翻弄され世界に離散(ディアスポラ)したユダヤ教を信仰するユダヤ人が第二次世界大戦後ユダヤ人国家イスラエルを建国したことで周辺アラブ人国家と摩擦を起こしています。
更にユダヤ人資本が世界経済に大きな影響力を持っている事もこの地域を複雑にしている。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教

古代イスラエルに唯一神「ヤハウェ」を信じる一神教のユダヤ教が発祥した。
ユダヤ教の聖典(旧約聖書)に救世主(メシア)が出現すると預言されおり約2000年前、イエス・キリストを救世主(メシア)とするキリスト教が派生します。
それから600年後、イエスは預言者の一人にすぎない、”私が、本当の神の使徒である”と説いたムハンマドが出現しイスラム教が派生した。

キリスト教は新約聖書、イスラム教はコーランが経典であるが、3つの宗教とも、旧約聖書をベースの経典としているので聖地も神(YHWH)も必然的に同じです。旧約聖書で直接神の名を口にすることは畏れ多い禁忌であるされユダヤ人はアドナイ、キリスト教ではゴッド、イスラム教ではアッラーといっています。

古代イスラエルの歴史

『旧約聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀)がメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことにより古代イスラエルの歴史がはじまる。
孫のヤコブの時代に飢餓の為エジプトに移住するも、やがて子孫はエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が諸部族を率いエジプトから脱出(紀元前13世紀)する。シナイ半島を40年間放浪したのち定住を始め200年程かけて一帯を征服して行く。
ダビデ王(紀元前1004年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつになる。

用語調べ

メソポタミア?

 チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野で現在のイラクの一部にあたり、世界最古の文明、シュメール文明が発祥した地。

シュメール文明?

 シュメール人の文明が誕生したのは紀元前3500年頃とされる。他の文明の誕生は、エジプト文明が紀元前3000年頃、インダス文明が紀元前2500年頃、中国文明が紀元前1600年頃であるため、シュメール文明はさらに古い文明です。
シュメール人は、チグリス・ユーフラテス川流域に世界最古の都市国家を築き、それがメソポタミア文明の先駆けとなった。
アッカド、バビロニアに支配され、その後バビロニアがペルシャ帝国に併合された頃に、シュメール人は忽然と歴史から姿を消している。

ウル (Ur)の地?

 古代メソポタミアにあったシュメール人の都市及び都市国家。

カナンの地?

 地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名。旧約聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから「約束の地」とも呼ばれる。

イスラエル12部族?

12支族

 『旧約聖書』に記述されている以下の者達を祖とする部族のこと。
ヤコブとラバンの娘のレアから生まれた6子
  長男ルベンの末裔ルベン族
  次男シメオンの末裔シメオン族
  三男レビの末裔レビ族
  四男ユダの末裔ユダ族
  五男イサカルの末裔イサカル族
  六男ゼブルンの末裔ゼブルン族
ヤコブとレアの下女ジルバから生まれた2庶子
  兄ガドの末裔ガド族
  弟アセルの末裔アセル族
ヤコブとラケルの下女ビルハから生まれた2庶子  
  兄ダンの末裔ダン族
  弟ナフタリの末裔ナフタリ族
ヤコブとレアの妹のラケルから生まれた末子
  ベニヤミン の末裔ベニヤミン族
  ヨセフ
  ヨセフ
アセテナ(エジプトの祭司の娘)から生まれた2子
     兄マナセの末裔マナセ族
     弟エフライムの末裔エフライム族
以上を合計すると13部族となるが、ヤハウェ(ユダヤ教の唯一神)に仕える祭司職であるレビ族については領土が無く各地に分散して暮らしていたためレビ族を数えずイスラエル12部族とする。

失われた10支族の行方

 以下の4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説である。
※一部はアフガニスタンに
 パシュトゥーン人には、ヨセフ(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。
10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものです。
※一部はエチオピアに
 イエメンを経由して、ヨセフ(マナセ族、エフライム族)の末裔がアフリカに入った。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住した。それ以前には多くのユダヤ人が居住していた。
※一部は中国に
 宋代まで開封にユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうちのかなりの部分は、古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説がある。
※その他(学術的な検証という意味では上記の説以上に問題がある)
・一部はインドのカシミール地方にキリストの墓とモーセの墓と言われるものがある。
・一部はインド東部、ミャンマーに。マナセ族の末裔と称する「ブネイ・メナシェ」という人々がいる。1994年から2003年にかけて800人のブネイ・メナシェがイスラエルのユダヤ人入植地に移民した。
・一部はイギリスに。経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。
・一部は新大陸(アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、マウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族のガド族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。
・一部は日本にの説もある。中国の開封にユダヤ人街が有ったことは確認されており日本に到達していた可能性は否定できない。

ディアスポラ?

 パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありましたが、2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ人は、パレスチナを追い出され世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。
パレスチナは、アラブ人が暮らす地になり、ユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで散り散りになって暮らす事になります。
ディアスポラは、帰る国の無いこと。難民は、帰る国の有る人。

パレスチナ?

 地中海の一番、東沿岸の南にエジプト、東にヨルダン、北にシリアやレバノンに囲まれた場所です。第二次世界大戦後の1948年、この地にイスラエル(ユダヤ人)の国が建国され、現在は残りの土地(東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ地区)をパレスチナと呼んでいます。

アッシリア?

 現在のイラク北部を占める地域。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。
アッシリア帝国は、前3000年ごろからこの地に繁栄したセム族の王国。 紀元前671年、オリエント最初の大帝国となったが、紀元前612年、カルデア人・メディア人の反乱連合軍によって滅ばされる。

バビロン?

 バビロンとは古代バビロン帝国の首都。バビロンのあった場所は、メソポタミアで,チグリス川とユーフラテス川の間の土地で、現在のイラクあたりの地域を指す。

バビロン捕囚?

 紀元前586、新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼした際、イスラエル人をバビロンに連行・移住させた事件。
紀元前538年、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キロスによって帰還を許された。

レコンキスタ(国土回復運動)?

8世紀に始まるイスラーム支配に対する、イベリア半島のキリスト教徒による反撃の動き。11世紀から活発となり、15世紀末まで続く。

イスラエル建国までのユダヤ人の苦難の旅

 パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありましたが、2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ人は、パレスチナを追い出され世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。パレスチナは、アラブ人が暮らす地になり、ユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで散り散りになって暮らします。
「ディアスポラ」とは、帰る国の無いこと。「難民」とは、帰る国の有る人。

 米国ユダヤ人年鑑によると、1933年のヨーロッパのユダヤ人総人口は約950万人で、1,530万人と推定される世界のユダヤ人人口の60%以上を占めていました。
1933年の時点でユダヤ人人口が最も多かったのは、ポーランド、ソ連、ハンガリー、ルーマニアを含む東欧でした。そして、約550万人のユダヤ人がポーランドとソ連に住んでいました。 東欧のユダヤ人の大部分が、「シュテットル」と呼ばれるユダヤ人の町や村で暮らしていました。彼らはドイツ語とヘブライ語の要素を混ぜ合わせたイディッシュ語という独自の言語を話し、年配の人々は、男性は帽子を被り、女性は控えめにカツラやスカーフで髪の毛を覆う伝統的な服装をしていました。 
 西欧(ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、およびベルギー)のユダヤ人は、人口がずっと少なく、彼らの生活の中では昔ながらの宗教的な慣習やイディッシュの文化はあまり重要ではなくなっていました。彼らは東欧のユダヤ人よりも正規の教育を受け、都市部で暮らすようになっていました。     1933年にドイツでナチスが台頭してきた頃、ユダヤ人はヨーロッパ各国で暮らしており農夫、仕立屋、裁縫婦、工員、会計士、医師、教師、および中小企業主として、社会のあらゆる職業でユダヤ人を見かけることができました。第二次世界大戦中にドイツ占領下の国々に住んでいたユダヤ人は、合計でおよそ900万人でした。終戦までに、これらのユダヤ人の3人の内2人が殺戮されました。

年表

  1. ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の祖アブラハムはメソポタミアの遊牧民であった。

  2. 紀元前17世紀頃 アブラハムの家族(アブラハム、イサク、ヤコブ)は、メソポタミアのウルを出発しヨルダン川西岸カナンの地に定住。 飢饉によりイスラエルの民はエジプトへ移住する。

  3. 紀元前13世紀頃  イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出、シナイ砂漠を40年間流浪した後、イスラエルの地に定住。

  4. 紀元前1020 ユダヤの王政が始まる(初代王:サウル)。

  5. 紀元前930 王国がユダ(南王国)とイスラエル(北王国)に分裂。

  6. 紀元前722〜720 イスラエル王国がアッシリアに敗北し10部族が追放される。失われた10支族。

  7. 紀元前586 ユダ王国がバビロニアに征服されバビロン捕囚。

  8. 紀元前538〜515 ペルシア帝国のキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され多数のユダヤ人がバビロンから帰還。ユダ王国は復活したが、セレウコス朝の支配を受けていた。

  9. 紀元前142 ユダヤ人は事実上の独立をする。これをハスモン朝(紀元前166〜紀元前63)という。

  10. 紀元前63 ローマのポンペイウスによってエルサレムが占領され、神殿は破壊される。ハスモン家の支配者の王位は剥奪され大祭司を名乗ることだけが許されて事実上滅亡した。

  11. 紀元前40年 ローマ元老院はヘロデをユダヤ人の王として認める。ヘロデ王はローマの力を背景に全パレスチナの支配を目指した。

  12. 紀元前4年 ヘロデ王が死にパレスチナは紀元6年からローマ帝国の属州となった。
    ローマ帝国は、ユダヤ教の信仰を認めユダヤ人を宗教を理由に迫害することはなかったが、2度にわたるユダヤ戦争(抵抗戦争)の結果パレスチナから追放されることとなり、ローマ帝国領内の地中海各地やアフリカ、メソポタミア地方に離散していくこととなった。これを「ディアスポラ」と言います。

  13. 東ヨーロッパのスラブ系民族の地域は早くからユダヤ人が移住していた。はじめは、6~10世紀ごろ、南ロシアの草原にあったハザール国がユダヤ教を受容してユダヤ化し、ヴォルガ川などの通商路に沿って北上し定住した。

  14. ポーランドにおいては、十字軍(11世紀〜13世紀)の迫害を逃れてユダヤ人の集団移住が始まり移民が増加していきます。特に14〜15世紀にかけて中産階級育政策としてユダヤ人に土地所有の特権などを与えたことによりヨーロッパから多数のユダヤ人がポーランドに流入します。ヨーロッパ各国でユダヤ人への中傷迫害追放があった時代に唯一ユダヤ人に対して寛容な国であった。ユダヤ人の多くは商工業に携わってポーランド王国の経済に貢献します。この時代にヨーロッパ最大の広大なリトアニア=ポーランド王国を形成し、その領土は現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ一帯に及んだ時期もある。
    彼らは一定の自治が認められ、手工業や商業、あるいは国王の財政官に取りたてられるなど安定した社会を形成した。

  15. 1306年、フランスはユダヤ人を国外退去にする。 しかし、財政難になるとユダヤ人の帰国を許し、後に追放するということをくり返している。最終的に1394年に狂気のシャルル6世によって追放された。ユダヤ人はドイツや、ピレネーを越えてスペインに逃れた。

  16. ユダヤ人が最も多く居住し、またその歴史にとっても重要な場所となったのはイベリア半島のスペインだった。イベリア半島にはローマ時代からユダヤ人が住むようになっており、8世紀のイスラーム勢力の進出(サラセン帝国)に伴って多くのユダヤ人が移住した。14世紀末には約25万人のユダヤ人が居住していた。1492年にユダヤ教徒追放令が公布され出国するか、キリスト教に改宗するかの二者択一を迫られた。ユダヤ人の多くは、隣国のポルトガルやオスマン帝国の都イスタンブールに逃れた。

  17. 15世紀までのユダヤ人の多くはポルトガル文化の中で積極的な役割を果たし、外交官や商人としての評判を維持していました。1580年にポルトガルがスペインに併合され、イベリア半島全域で宗教裁判(異端審問)が厳しく行われるようになると、「新クリスチャン」として残っていたユダヤ人は、当時スペインから独立運動を展開していたプロテスタントのネーデルランド、アムステルダムを新たな移住先に選び逃れていった。

  18. オランダにおけるユダヤ人の歴史は16世紀に始まります。現在オランダとして知られる地域はかつてスペイン帝国の一部でした。当時スペイン統治下で禁止されていたプロテスタントを実践したいという願望が動機となり1581 年にオランダ北部の州が独立を宣言します。宗教的寛容が国家の重要な要素となったオランダに世界各地で宗教的にも抑圧されているユダヤ人が注目し多くのユダヤ人がオランダに移住した。ユダヤ人はオランダの植民地領土と国際貿易の発展に大きな役割を果たしオランダは16世紀には海外との交易で急速に発展します。

  19. 1655年、第一次イギリス・オランダ戦争で行き詰まっていたイギリス経済を再建する為にユダヤ人をイギリスに呼び戻すことを決定した。 これによって1656年以降、ユダヤ人がイギリスに再移住するようになった。

旧約聖書時代

『旧約聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀)がメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことにより古代イスラエルの歴史がはじまる。
孫のヤコブの時代に飢餓によりエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後に紀元前13世紀、モーセ(モーゼ)がユダヤ諸部族をエジプトから連れ出し、シナイ半島を40年間放浪し紀元前12世紀頃からカナーンの地に定住しはじめる。

 紀元前11世紀末、ダビデ王(紀元前1004年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされ都をエルサレムに定める。
 次のソロモン王の時代にエルサレムに壮大な第一神殿(ヤハウェ神殿)を建設する。
 ソロモンの死後、息子のレハブアムが王位につくと強権的な王に北部の部族が離反し紀元前922年頃に分離してイスラエル王国を建て、歴代の王を輩出してきたユダ族ならびにダビデの王権樹立に協力したベニヤミン族の南のユダ王国とに分裂した。
この頃、北方のメソポタミアで一時衰えた同じセム語系民族のアッシリアが再び隆盛となる。北部のイスラエル王国はこのアッシリアに滅ぼされ直接支配される属州となった。10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された。サルゴン王の碑文に虜囚の数は2万7290人と有り、北王国滅亡直前の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されている。この数以外の行方が文書に残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた。
南のユダ王国は亡ぼされなかったが、重い貢納を義務づけられパレスチナはアッシリア帝国の支配下に組み込まれた。
 南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされ「バビロン捕囚」の民族的苦難を経験することとなる。
南王国ユダの2支族とはユダ族・ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた3部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には2部族でなく3部族が存在したわけだが、ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については領土が無く各地に分散して暮らしていたためレビ族を数えずイスラエル12部族とし、南王国についても「2部族」としている。

ペルシア帝国時代

紀元前538年、ユダヤ人はペルシア帝国のキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され、パレスチナに戻りイェルサレムに第二神殿(ヤハウェ神殿)を再建した。

ローマ帝国時代

紀元前40年、ヘロデがユダヤの王位についた。ヘロデ王はエルサレム神殿を大改築した。
ヘロデ王の死後ローマ帝国は紀元前6年、パレスチナを属州として直接支配をする。ローマ帝国は、ユダヤ教の信仰を認め宗教を理由にユダヤ人を迫害することはなかった。
ローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトはイエスの活動がパレスチナの反ローマ感情と結びつくのを恐れ西暦30年キリストを処刑した。この時はイエスを救世主とする原始的な教団も作られたが、当時はユダヤ教の一分派程度にしか捉えられていなかった。

 ユダヤ人は、ローマの支配に対する2度にわたるユダヤ戦争(抵抗戦争)は、いずれも弾圧されユダヤ人はパレスチナから追い出されることとなり、ローマ帝国領内の地中海各地やメソポタミア地方に離散(ディアスポラ)していくこととなった。
一度目の66年~70年の第1回ユダヤ戦争でエルサレムの第二神殿は破壊される。さらに131年の第2回ユダヤ戦争は、一時はイェルサレムを奪回し、135年まで抵抗を続けるが鎮圧されてしまった。
 2~4世紀、ローマ帝国内に離散したユダヤ人は、各地で集団を作り、信仰を禁止されることもなく一定の自治が認められていた。
それに反しキリスト教はネロ帝などによって弾圧の対象となって厳しく取り締まられた。
313年のコンスタンティヌス大帝が出した信教自由令でキリスト教が公認され、キリスト教は帝国内ではユダヤ人以外に広がって世界宗教となっていった。
ユダヤ教はローマ帝国内で異教として否定されるようになったが、ユダヤ人は年に一度、エルサレム滅亡の日「アブの月の9日」に旧神殿の壁にすがって祈る事が許された。それが「嘆きの壁」の由来である。

 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教はまたたくまにパレスチナを含む西アジアを支配するようになった。ユダヤ教徒はイスラーム世界では啓典の民とされていたので、迫害を受けることもなくイスラーム教に改宗することを強制されず、信仰と生命・財産を保護されたていた。
またユダヤ人は、商取引などで活躍し、イスラーム各王朝に官僚として登用されることもあり、その社会・文化に貢献することも多かった。
「イスラーム帝国」
 
7世紀中頃から13世紀中頃にかけて、西アジア、北アフリカ、南ヨーロッパの広大な地域を支配したイスラム教徒(サラセン人)の諸帝国を中世ヨーロッパではサラセン帝国とよんだ。
 ムハンマドが622年にメディナで組織したイスラーム教徒の共同体であるイスラーム国家は、7世紀の正統カリフ時代と8世紀前半までのウマイヤ朝時代までは、あくまで征服者であるアラブ人主体の国家であったので、「アラブ帝国」と言う。
イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家が、アラブ人主体の国家から非アラブのイラン人やトルコ人などの西アジアの広範な民族が平等な構成員となりイスラーム教の信仰によって結びついていった8世紀後半のアッバース朝以降を特にイスラーム帝国という。
750年に成立したアッバース朝では税制改革などによってイスラーム教徒(ムスリム)としての平等化がはかられたので、厳密な意味で「イスラーム帝国」といえるようになった。
*メディナを都とした正統カリフの時代(632〜661)
*ダマスカスを都とした、ビザンツ文化の影響の濃いウマイヤ朝(661〜750)
*バグダードを都としたペルシア文化色豊かなアッバース朝(東カリフ 750〜1258)
*コルドバを都としてスペインを支配した後ウマイヤ朝(=西カリフ 756〜1031)
1258年に蒙古軍によって滅ぼされた。16世紀にはいり「オスマントルコ」「サファビー朝」「ムガール帝国」の3帝国が生まれる。

イスラーム帝国

中世ヨーロッパ


 パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありましたが、2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされます。その後は、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にいたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。
パレスチナは、アラブ人が暮らす地になり、ユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで散り散りになって暮らします。
「ディアスポラ」とは、帰る国の無いこと。「難民」とは、帰る国の有る人。
 中世ヨーロッパでは封建社会の形成期で土地は荘園領主が支配しキリスト教徒の農奴が耕作する原則があり、ユダヤ人には土地所有の自由はなかった。そのため彼らは都市に流れ込んで居住区を作り、主に手工業者(鍛冶屋や皮鞣し屋など)か商人になっていった。
 800年にローマで戴冠したカール大帝はユダヤ人が帝国の経済活動に重要な貢献をしていることを認め、ユダヤ人を保護し、ユダヤ商人に特典を与えた。カロリング朝、カペー朝でもユダヤ人に対する保護政策は続けられた。
 カトリック教会は、ユダヤ教への改宗とユダヤ教徒との結婚を禁止していたが、中世ヨーロッパではユダヤ人は各地を移動する商人として活動すると同時に、村々に定住するようになり、どの村にも彼らの居住区が見られるようになった。
 西欧ではフランス、ドイツ、イギリスに移住するユダヤ人が増えていっ た。ローマ帝国時代以来のイタリアやスペインにも多く、さらに東欧のポーランドやロシアにもユダヤ人社会が作られていった。
彼らは定住地でシナゴーグ(集会所)を作り、律法(トーラー)に従った信仰生活を続けた。
キリスト教社会の中ではあくまで異教徒として存在していたが、ユダヤ人は2000年前からヨーロッパに住んでおリ最初から迫害されたわけではなく11世紀頃までは共存していた。

 米国ユダヤ人年鑑によると、1933年のヨーロッパのユダヤ人総人口は約950万人で、1,530万人と推定される世界のユダヤ人人口の60%以上を占めていました。
1933年の時点でユダヤ人人口が最も多かったのは、ポーランド、ソ連、ハンガリー、ルーマニアを含む東欧でした。そして、約550万人のユダヤ人がポーランドとソ連に住んでいました。
 東欧のユダヤ人の大部分が、「シュテットル」と呼ばれるユダヤ人の町や村で暮らしていました。彼らはドイツ語とヘブライ語の要素を混ぜ合わせたイディッシュ語という独自の言語を話し、年配の人々は、男性は帽子を被り、女性は控えめにカツラやスカーフで髪の毛を覆う伝統的な服装をしていました。 
 西欧(ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、およびベルギー)のユダヤ人は、人口がずっと少なく、彼らの生活の中では昔ながらの宗教的な慣習やイディッシュの文化はあまり重要ではなくなっていました。彼らは東欧のユダヤ人よりも正規の教育を受け、都市部で暮らすようになっていました。   
 1933年にドイツでナチスが台頭してきた頃、ユダヤ人はヨーロッパ各国で暮らしており農夫、仕立屋、裁縫婦、工員、会計士、医師、教師、および中小企業主として、社会のあらゆる職業でユダヤ人を見かけることができました。第二次世界大戦中にドイツ占領下の国々に住んでいたユダヤ人は、合計でおよそ900万人でした。終戦までに、これらのユダヤ人の3人の内2人が殺戮されました。

イスラエル建国以前

1900年段階ではユダヤ人口の多い地域は、多い順にソ連、東欧・バルカン諸国、西欧であった。 
ロシアにおけるポグロム(ユダヤ人に対する集団暴力行為)が1881〜1884年、1903〜1906年、1917〜1921年と3波にわたって多発し、1939年にかけてソ連のユダヤ人口は減少し、北米や東欧・バルカン諸国が増えている。 
その後、ナチスがドイツの政権を握り、侵攻先の東欧地域でユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)で500万人以上減少している。

第二次世界大戦後

大きな動きは1948年成立のイスラエル共和国へのソ連・東欧・北アフリカなどからの移住が拡大した点である。
戦後、ユダヤ人の総人口は増加しているが、ナチスの虐殺前の1600万人以上の水準には回復していない。
ユダヤ人総人口1,358万人のうちイスラエルに570.4万人米国に527.5万人と合わせて81%はこの2国に集中している。その他では、これら2国の10分の1以下の規模であるが、フランスの48.4万人カナダの37.5万人と続いている。
各国人口に占めるユダヤ人の比率としては、イスラエルの74.81%はユダヤ人の母国なので当然ですが、米国が1.71%、カナダが1.10%、フランスが0.75%、ハンガリーが0.49%、オーストラリアが0.48%、英国が0.47%、アルゼンチンが0.45%と続いている。米国のユダヤ人は人口数以上に大きい政治的、経済的な影響力を有している。

フランスにユダヤ人が多い理由は、フランス革命で世界に先駆けてユダヤ人に市民として生きる権が与えられ、1808年に唯一の公認ユダヤ人団体として長老会(コンシストワール・イスラエリット)が設立された。
そして1860年、こうして「解放」されたフランスのユダヤ人が中心となって世界ユダヤ教連盟がパリで結成され、フランス外のユダヤ人たちの支援にまで乗り出します。ユダヤ教徒であることを私生活に限定し、フランス社会に同化していったユダヤ人のことをイスラエリットという。
ドイツ・東欧系のアシュケナジム・ユダヤ人もフランスに移住したものが多い。
戦後にはマグレブ地域(アルジェリア、モロッコ、チュニジアなどの旧仏領北アフリカのフランス語圏)からセファルディム系のユダヤ人も多くフランスへ移住した。
 フランスにおける最近のユダヤ人の動きとして、フランス国内の反ユダヤ主義の高まりに加え、2014年7~8月にイスラエルとパレスチナ武装勢力との戦闘が勃発しフランス国内でもユダヤ人襲撃事件などが増加し、フランスを脱出してイスラエルに移住するユダヤ人が増加している点が目立っている。
2015年1月9日、パリでイスラム過激派によるユダヤ系スーパー立てこもり連続テロ事件が発生している。
2015年2月14~15日、デンマークの首都コペンハーゲンでも「表現の自由」をめぐる討論会会場とユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)が銃撃され二人が死亡するという連続テロ事件が起こった。
 デンマーク国内のユダヤ教徒は約6400人で、フランス、英国と比べると多くないが、歴史的にユダヤ人への寛容が重視されてきた。ナチス支配下にあった戦時中、ナチスによるユダヤ人迫害に唯一、国家規模で抵抗し自国にいたユダヤ人数千人をかくまい、中立国のスウェーデンに海路で送り込んで助けている。
 ヨーロッパ各国の反ユダヤ感情は、英国、フランス、ドイツといった国では小さいが、ギリシャ、あるいはポーランド、ハンガリーといった東欧では相対的に大きい。
世界で3番目にユダヤ人の多いフランスでは、親ユダヤが89%を占めており、ユダヤ人にとって暮らしやすいことがうかがわれる。
 一方、ロシアにおける反ユダヤ感情は特に大きいように見え、ウクライナ戦争で反ユダヤ主義の高まりの可能性を懸念してユダヤ人のロシアからの国外流出が続いている。ロシアの国家権力は政治体制が危機的状況になると、大衆の怒りと不満をユダヤ人社会に向けようとしてきた歴史が有る。
現在のベラルーシやポーランド、ウクライナを含むロシア帝国の各地では十九世紀から二十世紀初め、ユダヤ人への集団的迫害「ポグロム」が起きている。

非ユダヤ人のユダヤ国家ハザール

 6~10世紀、カスピ海・黒海・カフカス山脈に囲まれた南ロシアの草原地帯に存在したトルコ系の遊牧国家ハザール=カガン国は、イスラーム帝国やビザンツ帝国と交易しながら、ヴォルガ水系ではルーシなどとも交易して繁栄していた。
8世紀にユダヤ商人の活動によってユダヤ教が伝えられると、国王、貴族から民衆までその信仰を受け入れ、ユダヤ教国となった。
トルコ系諸民族のほとんどはイスラーム教を受容したのに対し、ユダヤ民族でない人々がユダヤ教徒になる、つまりユダヤ人になったという特異なケースで注目されている。
彼らはクリミア半島付近で存続したが、10世紀にキエフ公国の攻撃を受けて衰退、11世紀始めにロシアとビザンツの連合軍によって滅ぼされた。
しかし、その遺民はロシアにおけるユダヤ人となり、第二次世界大戦後のイスラエル建国に加わった。

アリヤーの歴史

アリヤーとはシオニズム思想の根本的な教義であり、ユダヤ人によるイスラエルの地(エレツ・イスラエル)への移民を言う。
1897年、スイスのバーゼルでテオドール・ヘルツェルが第1回シオニスト会議を召集、世界シオニスト機構が創設される。かつて王国があったパレスチナの地に戻り国をつくろうという「シオニズム運動」が起こる。
 1882〜1903 第一次アリヤー(主にロシアから大規模移民)。
 1904〜1914 第二次アリヤー(主にロシアとポーランドから)。
 1919〜1923 第三次アリヤー(主にロシアから)。
 1924〜1932 第4次アリヤー(主にポーランドから)。
 1933〜1939 第5次アリヤー(主にドイツから)
 1948年5月14日 イスラエルの独立宣言
 1948〜1952 欧州及びアラブ諸国から大量移民
 1984 モーセ作戦により、エチオピアからユダヤ人が移民。
 1989 旧ソ連からのユダヤ人の大量移民が始まる。
 1991 ソロモン作戦により、エチオピアからユダヤ人が空路で移民

ユダヤ民族迫害の歴史

中世ヨーロッパにおけるユダヤ人

 ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国の後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。
 ヨーロッパでは封建社会の形成期で土地は荘園領主が支配しキリスト教徒の農奴が耕作する原則であるので、ユダヤ人には土地所有の自由はなかった。そのため彼らは都市に流れ込んで居住区を作り、主に鍛冶屋や皮鞣し屋などの手工業者か商人になっていった。
 800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられたカール大帝はユダヤ人が帝国の経済活動に重要な貢献をしていることを認め、ユダヤ人を保護し、ユダヤ商人に特典を与えた。カロリング朝、カペー朝でもユダヤ人に対する保護政策は続けられた。
(カール大帝とは、フランク王国の全盛期の王。ブリテン島を除く西ヨーロッパをほぼ勢力下に納め、800年にローマ皇帝の戴冠を受け、西ローマ帝国を継承した。)
 中世ヨーロッパでユダヤ人は各地を移動する商人として活動する一方、村々に定住するようになり、どの村にも彼らの居住区が見られるようになった。
西欧ではフランス、ドイツだけでなく、イギリスへは11世紀のノルマンの征服に伴い、大陸から移住するユダヤ人が増えていった。
ローマ帝国以来のイタリアやスペインにも多く、さらに東欧のポーランドやロシアにもユダヤ人社会が作られていった。
彼らは定住地でシナゴーグ(集会所)を作り、律法(トーラー)に従った信仰生活を続けた。
 キリスト教社会の中ではあくまで異教徒として存在していたが、ユダヤ人は最初から迫害されたわけではなく、11世紀頃までは共存していた。ユダヤ人に対する迫害が始まるのは、11世紀末の十字軍時代以降のことであった。

反ユダヤ主義

 キリスト教はユダヤ教から派生した教えで、ユダヤ教の国で新しい教えを広めたイエス・キリストはユダヤ教の聖職者たちと対立します。反ユダヤ主義は宗教の問題に根ざすもので、イエス・キリストの死後まもなく始まり特にヨーロッパでユダヤ人は差別や迫害に苦しむことになります。
 キリスト教がヨーロッパに広がるとキリスト教徒は「イエス・キリストを救世主として認めないユダヤ人を蔑み、イエスが磔にされた責任もユダヤ人にある」あるいは「ユダヤ教を守るのに熱心、金融業に携わり富を握っている、教育に熱心で識字率が高く知識階級の中で影響力を持つ」等などの様々な要素が重なりユダヤ人を迫害するという歴史が繰り返されます。
・ユダヤ人は「過越の祭」を祝うために子供を殺している。
・ユダヤ人は「種なしパン」を作るため人間の血を使う。
・大火が起きればユダヤ人が火をつけた
・疫病が流行ればユダヤ人が毒を使ったと疑われた。
・キリスト教の異端はみなユダヤ教からきている。
・内乱が起きると国王はユダヤ人が内通していると疑う。
・内乱の叛徒側はユダヤ人は国王の手先だと疑う。
磔刑されたイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教においては最も重要とされる「復活祭」が近づくとユダヤ人攻撃が行われた。

十字軍時代(11世紀末〜12世紀)

 イスラーム教徒によって冒涜された聖地を奪回する十字軍兵士と同じように、ヨーロッパの内なるキリスト教の敵であるユダヤ人と戦うことが必要だ、キリストの流した血はキリストを殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちになるのだと煽動する者が現れた。
 第1回十字軍が派遣された1096年5月、ドイツのライン地方でユダヤ人に対する襲撃事件、ロレーヌ地方ではユダヤ人22名が犠牲になった。
5月3日の安息日にはシュパイエルのシナゴーグが包囲され攻撃を受けた。
5月18日の日曜日、ヴォルムスでユダヤ人攻撃が行われ、キリスト教の洗礼を受けて難を逃れた者と自殺したもの以外は全員虐殺された。
同じような出来事はラインの谷に沿って次々と起こり、5月30日にはケルンと遠く離れたプラハでも起こった。
 第1回十字軍は本隊が1097年にエルサレムに進入、聖都の急な坂道には血の川が流れ、ユダヤ人はシナゴーグに押し込められて火をつけられた。
 第2回十字軍(1147年)でも、ドイツライン地方とフランスで反ユダヤ暴動が起こっている。
 第3回十字軍にイギリスのリチャード1世が参加すると、1189年9月にロンドンでユダヤ人街での略奪が起こり翌年春には全国に及んだ。ヨークでは逃げ場を失ったユダヤ人が城内に逃げこんでラビの指導のもとで子供も含めて差し違えて自殺するという事件もおこった。

第3回ラテラノ公会議(1179年)

 キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という誤解された教えに縛られていたのに対して、ユダヤ人は金貸しが許されていたことから、商業の発展に伴って豊かになっていった。
 カトリック教会は聖書の「イエスの山上の垂訓」の中に「何も当てにしないで貸してやれ」とあることを誤って解釈し利子を取って金銭を取ることに反対した。本来のヘブライ語では「なにかに報われるという希望を決して失わずに貸してやれ」という意味であったが、カトリック教会の誤解釈がアリストテレスの考えと一致しているとして権威づけられ1179年の第3回ラテラノ公会議では憎むべき高利貸業に従事するものはキリスト教徒として埋葬を拒否されることになった。
 商業の発展には金融は不可欠であり、それに従事するユダヤ人は唯一の資本家階級となり、戦争と建築はその資本の援助がなければできないようになった。十字軍もユダヤ資本を利用していたが、ユダヤ人は聖なる戦いである十字軍で儲けているという非難が起きている。
まもなくイタリアや南ドイツではユダヤ商人以外にも金融を営むものが生まれたが、彼らは主に国王や貴族を相手にし、庶民金融はユダヤ商人が行っていたので、庶民の怨みはユダヤ商人だけに向けられることになった。
 これ以外にも当時最も問題とされた異端運動であるアルビジョワ派対策として、ユダヤ人がキリスト教徒を使用人とすることを禁止し、キリスト教徒とユダヤ教徒が同居することも一切禁止された。これが後のゲットーの根拠となった。

第4回ラテラノ公会議(1215年)
 
1215年11月30日、ローマ教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議を召集し、より一層苛酷な反ユダヤ人政策を打ち出し、教皇勅書として公布した。
それはすべての異教徒に対し「差別バッジ」を付けることとした。普通、バッジは黄色か深紅色の布きれであったが、バッジだけでは不十分と思われたところでは目立ちやすい色の帽子をかぶることが決められた。

13~14世紀の集団ポグロム

 13~14世紀において、ユダヤ教がイエスを救世主として認めないこと、イエスを裏切ったのがユダヤ人だったことなどを口実に、しばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)が行われる様になった。
イギリス、フランス、スペインでは国外追放にされたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられたりすることとなった。
 ユダヤ人に対する迫害が最も広範囲で、しかも激しく行われたのが、14世紀のイギリスとフランスの百年戦争の最中の1348年~1352年の黒死病の大流行の最中に起こったユダヤ人迫害であった。その間の戦争、農民一揆の多発、教会の大分裂と教会批判の始まりなど、中世ヨーロッパが転換期にさしかかっていたことに対するキリスト教徒の不安がユダヤ人に向けられ、多くの迫害が行われたと考えられる。

人類史上極悪の虐殺

 反ユダヤ主義は、20世紀に入っても根強く存在し、それを先鋭化させたのがナチス党首アドルフ・ヒトラーです。
優性民族のアーリア人こそがドイツを支配しヨーロッパを統一すべきと考え、ユダヤ人を劣等民族として迫害し国外に追放することを目指します。1939年、第二次世界大戦が始まり戦線が拡大するとユダヤ人を追放、隔離ではなく、「処理」することへ方針を転じ「絶滅収容所」を登場させます。
この虐殺のための施設で、主にガスによる大虐殺(ホロコースト)が行なわれ第二次大戦中、およそ600万人のユダヤ人がナチスに命を奪われたといわれています。

イタリアにおけるユダヤ人

ローマ帝国は何世紀にもわたって西ヨーロッパと地中海を支配し、西洋の哲学、科学、芸術の発展に計り知れない貢献をした。
(ローマ帝国は紀元前27年にアウグストゥスが初代皇帝に即位する。395年に東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の嵐の中の476年に滅亡した。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされる)。
476年に西ローマ帝国が滅亡した後、イタリアは数多くの都市国家や地方政治に分断された。
海洋共和国の特にヴェネツィアとジェノヴァは、海運、商業、銀行業を通じて大繁栄を遂げ、アジアや近東の輸入品のヨーロッパにおける主要な入港地として機能し、資本主義の基礎を築いた。
中央イタリアは教皇領のまま、南イタリアはビザンチン、アラブ、ノルマン、スペイン、ブルボンの王家が相次いだため、大部分が封建的なままであった。
 イタリア・ルネサンスはヨーロッパの他の地域にも広がり、人文主義、科学、探検、芸術への新たな関心をもたらし近代が始まった。イタリアの探検家たち、マルコ・ポーロ、クリストファー・コロンブス、アメリゴ・ヴェスプッチなどは、極東や新大陸への新しいルートを発見し、大航海時代の幕開けに貢献した。
主権国家の形成は西ヨーロッパで最も遅れたが、都市国家ローマ以来のラテン文化、キリスト教世界の中心としてのローマ教皇、さらにルネサンスの震源地、などなど文化史的には一貫してヨーロッパをリードする地域であった。

イタリアにおけるユダヤ人の歴史は、キリスト教以前のローマ時代にまで遡り、極度の迫害や追放の時代にもかかわらず、現在に至るまで2000年にわたり続いています。
キリスト教以前のローマのユダヤ人コミュニティは、世界で最も古い継続的なユダヤ人コミュニティの 1 つです。 共和政ローマ後期(紀元前 150 年頃〜)のローマには多数のユダヤ人が住んでいた。彼らのほとんどはギリシャ語を話す貧しい人たちで、独特で後進的な宗教慣行の信奉者とみなされてきた。
この時代、ローマに加えて、南イタリアのシチリア島、カラブリア州、プーリア州に定住していた。
古代後期においては、313年コンスタンティヌス帝によるローマ帝国の合法宗教としてのキリスト教の推進 (ミラノ勅令) により、イタリアおよび帝国全体におけるユダヤ人の地位は急速かつ劇的に低下した。
568 ~ 774年、ゲルマン人のランゴバルド王国が建国され、ユダヤ人は彼らの下で平和に暮らしました。ランゴバルド人がカトリックを受け入れた後も、当時の教皇が彼らを迫害しなかっただけでなく、多かれ少なかれ彼らの保護を保証したため、ユダヤ人にとっての状況は常に良好でした。イタリアの各州は、営利企業の利益を確保するために一定の保護を認めました。
中世においては、1172 年にボローニャから短期間追放されるなど、数回の追放と強制改宗があったが、ゲルマン人の統治下で、南イタリアとシチリア島のユダヤ人はさらに大きな自由を享受しました。
 教皇インノケンティウス3世(在位1198年~1216年)の下で、すべてのユダヤ人は、黄色のバッジを目立つように着用しなければならなくなった。
 アヴィニョンを本拠地とする対立教皇ベネディクト13世(在位1724年〜1730年)の容赦ない迫害に大変苦しむも、ヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ピサなどのイタリアの大都市は、教会の指導よりも商業的利益の方が重要であると認識していた。これによって、ユダヤ人銀行家や影響力のあるユダヤ商人の活躍が容易になり、トスカーナ州においての銀行取引はすべてピサのユダヤ人ジェヒエルが握ることになります。
また、ウィリアム・オブ・ポルタレオーネは、ナポリ王フェルディナンド1世の主治医であり、スフォルツァ公とゴンザーガ公の主治医でもあった当時最も才能のあるユダヤ人の熟練医師でした。
近世においては、1492年にユダヤ人がスペインから追放されたとき、彼らの多くはイタリアに避難し、そこでナポリ王フェルディナンド1世の保護を受けました。
スペイン系ユダヤ人はまた、フェラーラではエルコレ・デステ1世によって、またトスカーナではピサのジェヒエルとその息子たちのとりなしによって好意的に迎えられた。1492年にはユダヤ人はシチリア島人口の3%〜6%を占めていたと推定されています。シチリアのカラブリア州には4世紀からすでにユダヤ人コミュニティが存在していました。
 1492年にスペインからユダヤ人が追放された時、約9,000人の貧しいスペイン系ユダヤ人が教皇領の国境に到着した。アレクサンダー6世は彼らをローマに歓迎し、「キリスト教の干渉なしに生活し、独自の儀式を執り行い、富を獲得し、その他多くの特権を享受することが許される」と宣言した。
同様に、1497年にポルトガルから、1498年にプロヴァンスから追放されたユダヤ人の移民を許可した。
しかし多くのユダヤ人は、ナポリとローマの都市からアンコーナ、ヴェネツィア、カラブリアへ、そしてそこからフィレンツェやパドヴァへ移住した。
ナポリ王国がスペインの統治下に置かれ、スペインの異端審問所からの追放命令の対象となり1524年にユダヤ人はカラブリア州から追放され、1540年にはナポリ王国全土から追放された。
多くのユダヤ人は、オスマン帝国へ向かい、ある者はアンコーナへ、ある者はフェラーラへ向かい、エルコレ2世公爵に丁重に迎えられた。
エルコレ公は、スペインとポルトガルから追放されたマラノア人が自らの領土に入り、自由かつ公然とユダヤ教を告白することを許可した。
パウロ 4 世によって、1555 年の教皇令によるローマのゲットーの創設、黄色のバッジの義務付け、教皇領内の各ゲットーは 1 つのシナゴーグに制限された。 多くのユダヤ人はローマとアンコーナを去り、フェラーラとペーザロに行きます。ここでウルビーノ公は、当時アンコーナのユダヤ人の手に独占されていたペーザロの新港に大規模なレバント貿易を誘導することを期待して彼らを丁重に歓迎した。
パウロ 4 世の後の教皇ピウス5世は全教皇領からユダヤ人を追放することを決定した。ユダヤ人(合計約1,000家族)はローマとアンコーナを除くすべての教皇領から追放された。大多数はイタリアのレグホンとピティリアーノの地域に避難した。

 1556 年以降のローマと 1580 年代のヴェネツィア共和国での状況悪化は、この地域から多くのユダヤ人がポーランド・リトアニア連邦に移住することに成る。16 世紀を通じてユダヤ人は南イタリアから徐々に北に移住した。
ローマとジェノバでは、彼らは飢え、疫病、貧困といったあらゆる苦しみと痛みを経験し、飢餓から逃れるために強制的に洗礼を受けさせられた。

ナポレオン一世(在位1804~1815)の自由主義的な宗教政策の影響を受けて、教皇の最高権力は崩壊した。教皇にはもはや反ユダヤ主義を制定する時間がなく、ユダヤ人に対する教会法を制定することもできなくなった。 イタリア系ユダヤ人もフランス系ユダヤ人同様に解放された。
しかし、教皇ピウス7世が領土を取り戻したとき、異端審問が再開されユダヤ人たちのあらゆる自由を奪い、再びゲットーに投獄した。
19世紀
 
1829年、皇帝フランツ1世の布告により、ヴェネツィア、ヴェローナ、マントヴァの協力を得て、イタリア初のラビ学校がパドヴァに開校された。
 ヨーロッパ全土を震撼させた1848年革命はウィーン体制の崩壊を招きユダヤ人に多大な恩恵をもたらした。1849 年初めに教皇領が回復されましたが、過去の迫害と暴力はほぼ停止していました。
 1859年、教皇領のほとんどがヴィクトル・エマヌエル2世の下でイタリア連合王国に併合された。ローマ教皇統治の終わり(1870年9月20日)によってユダヤ人は完全な解放を獲得した。
20世紀初頭
 1910 年に就任したイタリアのルイジ・ルッツァッティ首相は、キリスト教に改宗していない世界初のユダヤ人の政府首脳の一人でした。同じくユダヤ人のエルネスト・ナタンは、1907年から1913年までローマ市長を務めた。1902年での上院議員350人のうち6人がユダヤ人、1920年ではユダヤ人上院議員は19名になった。
第一次世界大戦中、約5,000人のイタリア系ユダヤ人がイタリア王立陸軍に徴兵され、その約半数が士官として勤務した(平均的なイタリア系ユダヤ人の高等教育レベルのため)。 戦闘中に約420人が死亡または行方不明となった。約700人が軍の勲章を受け取っている。
 第二次世界戦中、約1万人のイタリア系ユダヤ人が強制収容所または絶滅収容所に入れられ、そのうちの7,700人がホロコーストで死亡したと推定されている。
第二次世界戦後のイタリアのユダヤ人コミュニティの規模は、出生率の低下、同化、異種間結婚、イスラエルと米国への移民で、戦後数十年間を通じ継続的な減少に直面している。
 1970年代に、イラン系ユダヤ人(シャーの追放後)と北アフリカ系ユダヤ人(主にカダフィ大佐の権力掌握後のリビア出身)がイタリアに避難する。
 2017 年 12 月 13 日、イタリアのユダヤ教と海岸博物館 (MEIS) がフェラーラに開館しました。この博物館は、ローマ帝国から始まり、20 世紀のホロコーストに至るまでのイタリアのユダヤ人の歴史が展示されています。

イギリスにおけるユダヤ人

イギリスへは11世紀のノルマンの征服に伴い、大陸から移住するユダヤ人が増えていった。
 1215年11月30日、第四回ラテラノ公会議での教皇勅書が発行されて以来、国によってはユダヤ人一掃を国家の責務とするところも現れた。その最初がイギリスであった。
 1275年にエドワード1世は「ユダヤ人に対する法律」を定めて高利貸業を禁止する。
 1290年7月18日、エドワード1世は、イングランド王国からすべてのユダヤ人の追放令を布告をする。それによって1万6千人余りのユダヤ人が国外に追放される。
 1655年、アムステルダム在住のユダヤ教ラビ、マナセ・ベン・イスラエルがイギリスのクロムウェル政権に対してユダヤ人のイギリス復帰の嘆願書を提出した。 この時、イギリスは第一次英蘭戦争でオランダに勝ったとは言え、イギリス経済は行き詰まっていた。
1656年、クロムエル政権は行き詰まっていたイギリス経済を再建する為にはユダヤ人を再びイギリスに導入する必要があると考えユダヤ人をイギリスに呼び戻すことを決定した。 1656年以降、ユダヤ人がイギリスに再移住するようになった。(西欧の大航海時代を参照してください)

フランスにおけるユダヤ人

フランスは中世(5世紀〜15世紀)のユダヤ教の中心地であったが迫害もあった。
聖王と言われたルイ9世は1215年の第四回ラテラノ公会議の決定を徹底的に実行しようとした。1249年、十字軍に出発する直前、ユダヤ人を国外に追放することを布告したが、実行されなかった。
1306年7月22日、孫の美王フィリップ4世は国内のユダヤ人に国外退去を命じその財産は国王が没収した。
1315年、次のルイ10世は財政難のため12年間の帰国を認める。ところが帰国したユダヤ人は1320年、南フランスから始まった一種の国内版十字軍の襲撃対象とされ大量虐殺が行われ、生き残ったものは国外に追放された。
 フランスではその後も財政困難になると国王がユダヤ人の帰国を許し、また襲撃されて追放されるということをくり返している。
1394年に狂気のシャルル6世によって最終的に追放された。ユダヤ人はドイツや、ピレネーを越えてスペインに逃れた
18世紀後半のフランス革命によってフランスはヨーロッパで初めてユダヤ人を解放した国となった。
20世紀初頭にはロシア、東部、中部から大量のユダヤ人がフランスに移民しているが、第二次世界大戦中(1939〜1945)ナチスに占領されたヴィシー政府は占領軍に協力して、フランス系ユダヤ人と外国系ユダヤ人難民の両方を大量に強制収容所に移送した。戦争が終わるまでに、フランスのユダヤ人人口の25%がホロコーストで殺害されてる。
 21 世紀において、フランスは世界でイスラエル、米国に次ぐ3番目に多いユダヤ人人口を抱えておりヨーロッパで最大の推定480,000 ~ 550,000 のユダヤ人人口を抱えています。21世紀のフランス系ユダヤ人の大多数は北アフリカのスファラディ系、ミズラヒ系、ユダヤ人である。多くは、1950〜1960 年代に独立を獲得した北アフリカの旧フランス植民地から移住している。 

ドイツにおけるユダヤ人

神聖ローマ皇帝カール4世(在位1347~1378)の治下のドイツではユダヤ人が帝国の経済活動に重要な貢献をしていることを認め、ユダヤ人を保護し、ユダヤ商人に特典を与えた。
1336年にはアルザスなどで「ユダヤ人殺し」と自称する二人の貴族に率いられた暴徒がユダヤ人を大量殺害している。
 16世紀(1517年) にルターによってドイツで始まった宗教改革をカトリック教会に抑圧されていたユダヤ教徒は期待したが、プロテスタント圏でもユダヤ人に対する迫害はカトリック圏と変わることはなかった。そしてカトリック教会は、ルネサンス期のローマ教皇の寛容さは失われ、ユダヤ人にとっては最も暗い時代となった。例えば、1555年教皇となったパウルス4世は、突然マラーノ保護をやめ、中世のユダヤ人抑圧法を復活させ、ゲットーを設けて隔離し、ユダヤ人に差別バッチを付けることを強要した。このようなカトリック圏でのユダヤ人迫害は19世紀中頃まで続いた。
そのため、ドイツのユダヤ人の多くはポーランド、ウクライナなどの東方に移住した。彼らはアシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する)といわれ、彼らはイデッシュ語というドイツ語の中部高地方言にスラブ語やヘブライ語が混じった言語を用いていた。第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国を主導した人々である。

 「反ユダヤ主義」は20世紀に入っても根強く存在し、それを先鋭化させたのがナチス党首アドルフ・ヒトラーです。「優性民族」のアーリア人こそがドイツを支配しヨーロッパを統一すべきと考え、ユダヤ人を劣等民族として迫害し国外に追放することを目指しました。
 1939年、第二次世界大戦が始まりドイツはポーランドに侵攻します。そこには200万人以上のユダヤ人が暮らしており彼らを追放することは物理的に不可能であり、彼らを強制居住区「ゲットー」に隔離します。
1941年6月、ソ連に侵攻、ポーランドのゲットーのユダヤ人をソ連などの東方に追いやろうとしますが、戦線膠着のため頓挫。
そこでユダヤ人を追放、隔離ではなく、悲劇的な「処理」することへ方針を転じアウシュヴィッツに代表される「絶滅収容所」を登場させます。「絶滅収容所」は文字通り虐殺のための施設で、主にガスによる大虐殺(ホロコースト)が行なわれ第二次大戦中、およそ600万人のユダヤ人がナチスに命を奪われたといわれています。

スペインにおけるユダヤ人

中世のイベリア半島地図

 ユダヤ人が最も多く居住し、またその歴史にとっても重要な場所となったのはイベリア半島のスペインだった。イベリア半島にはローマ時代からユダヤ人が住むようになっていたが、8世紀のイスラーム勢力(サラセン帝国)  
の進出に伴って多くのユダヤ人が移住した。
10世紀頃に国土回復運動(レコンキスタ)が盛んになっても、初めの頃はキリスト教のカスティリヤ王国においてもユダヤ人は財政や外交で、知識人として重用されていた。
ムラービト朝・ムワッヒド朝は原理的なイスラーム教国であったのでユダヤ教徒は排除された。多くは北のカスティリャ王国か、東方のエジプトなどに逃れた。
 1212年、ラス=ナバス=デ=トロサの戦いを転換点としてイスラーム勢力の後退が始まりキリスト教側が優勢になる。
他のヨーロッパ各地で十字軍運動とともに始まったユダヤ人に対する、激しい宗教的不寛容、排他的国家主義、商業的対立などがイベリア半島にも及んできた。
 1391年6月にはセビリャからはじまったユダヤ人襲撃がスペイン全土に広がった。このとき約7万人が犠牲となり、難を逃れるにはキリスト教に改宗することしかなく、多くのユダヤ人が改宗した。
14世紀末のスペインのユダヤ人人口は約25万人(カスティリャに約18万、アラゴンに約7万)とされ、1492年までに約15万人がキリスト教に改宗したと言われる。

 1479年、カスティリャとアラゴンの統合が実現しスペイン王国となった。カトリックによる統一国家の建設をめざすフェルナンド王と妻イサベル女王は、コンベルソの中の偽改宗者のあぶり出しを本格化させた。
 1492年1月、グラナダが陥落してレコンキスタが完了した直後の1492年3月31日にユダヤ教徒追放令を出した。これによって出国するか、キリスト教に改宗するかの二者択一を迫られ、その多くは、隣国のポルトガルやオスマン帝国の都イスタンブールに逃れ、残った者はキリスト教に改宗した。
かつてパレスチナの地から最初のディアスポラをしたユダヤ人は、イベリア半島から再びの離散を強いられたのだった。
(西欧の大航海時代を参照してください)
 ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した「新キリスト教徒」はコンベルソと言われた。改宗した者の中の偽改宗者は蔑称としてマラーノ(豚)といわれた。特にマラーノはキリスト教徒にとって危険で不純な存在とされ、その疑いのある者は厳しい異端審問を受けなければならなかった。

ポルトガルにおけるユダヤ人

 ポルトガル国王アフォンソ1世は、1170年にリスボン、アルマダ、パルメラ、アルカセルの非キリスト教徒の商人にアフォンソの憲章を贈ります。
この憲章は、町の少数派ユダヤ人に対して礼拝の自由と伝統的な法典の使用を保証した。 ポルトガル経済におけるユダヤ人コミュニティの重要性は、イスラム教徒、キリスト教徒にとっても重要であった。ポルトガル国王サンチョ1世、ディニス1世の治世中もユダヤ人に融和的な立場を維持した。
 15世紀まで、ユダヤ人の多くはポルトガル文化の中で積極的な役割を果たし、外交官や商人としての評判を維持しました。この時までに、リスボンとエヴォラには重要なユダヤ人コミュニティの本拠地ができていた。
 スペインが1478 年に異端審問を開始し、1492 年に全てのユダヤ人の追放が宣言されると多くのスペイン系ユダヤ人がポルトガルへ逃亡した。
ポルトガルは、スペインを離れることを選んだほとんどのユダヤ人の目的地になり約10万人のユダヤ人が移住した。ポルトガルの国王ジョアン2世は大金を払ったものは入国を認めたが、それ以外の者の多くは奴隷に売られた。
 1496年11月にマヌエル1世は、ユダヤ教徒及びイスラーム教徒の国外追放令を出す。しかし、ユダヤ人の市民としての価値を認めるマヌエル1世は、ユダヤ人をカトリックに改宗させてポルトガルに残すことを考えた。
1497年の春、「過越の祭」の始めにこの命令は発せられ、強制的に改宗させられてポルトガルに留まることを許された。
(西欧の大航海時代を参照してください)
「新クリスチャン」は、その後も「隠れユダヤ教」と疑われ、厳しく異端審問の対象とされた。改宗しただけのユダヤ人は狂信的なカトリック信者の憎悪の対象になり1506年4月にはリスボンで「新クリスチャン殺戮」の凶行が絶頂に達し、この時だけで2000人の生命が奪われた。

 1580年にポルトガルがスペインに併合され、イベリア半島全域で異端審問が厳しく行われるようになると、「新クリスチャン」として残っていたユダヤ人は、当時スペインから独立運動を展開していたプロテスタントのネーデルランド、アムステルダムを新たな移住先に選び逃れていった。

アマゾンのユダヤ人は植民地時代にブラジルに来たのではなく、アマゾンのゴムブームの時にアマゾン地域に移住したモロッコ系ユダヤ人の子孫です。

ベルギーにおけるユダヤ人

 ベルギーにおけるユダヤ人の歴史は、西暦 1 世紀から現在まで続きます。現在のベルギーに最初に到着したユダヤ人は、西暦 50 年から 60 年の間にローマ人とともに到着しました。この初期のコミュニティは、1348年から1350年にかけての黒死病の迫害、そして最終的には1370年のブリュッセル虐殺の後ほとんど消滅した。
 16世紀、スペインやポルトガルから亡命した多くのスファルディアンユダヤ人がベルギーやオランダに定住した。さらに、新キリスト教徒である多くのマラーノが 15 世紀末にアントワープに定住した。
 ベルギーにおけるオーストリア (ハプスブルク家) の統治は 1713 年に始まりました。特に皇帝ヨーゼフ 2 世の治世下では、ユダヤ人は手工業を行うこと、土地を所有すること、墓地を運営することなど、より多くの権利を獲得しました。当時、多くのアシュケナージ系ユダヤ人がこの地域に移住しました。ベルギーにおけるユダヤ人の地位は、フランスとオランダの統治下でさらに改善されました。
 1830年のベルギーの独立直後、ユダヤ教は公式に認められた宗教の地位を与えられた。ユダヤ教の公式代表(ベルギー中央ユダヤ会議所)が1832年、 ブリュッセルの大シナゴーグは1876年〜1877年にかけて建設された。
世紀の変わり目頃、世界のダイヤモンド貿易の中心地はアムステルダムからアントワープに移り、多くのユダヤ人のダイヤモンド貿易業者や研磨業者がこの都市にやって来た。
第一次世界大戦中、多くの人が中立国のオランダに逃れたが、戦後に戻ってきた。1920年代にはポーランド系ユダヤ人やルーマニア系ユダヤ人、1930年代にはナチスの迫害によりドイツ系やオーストリア系のユダヤ人が流入した。
 第二次世界大戦前および最盛期には、ベルギーのユダヤ人コミュニティは約 70,000 人のユダヤ人 (アントワープに 35,000 人、ブリュッセルに 25,000 人) で構成されていた。ベルギーは1940年5月〜1944年9月までナチス・ドイツに占領され、ベルギー全土で反ユダヤ主義政策が採用された。ベルギー系ユダヤ人の約45%(25,484人)がアウシュヴィッツの強制収容所に移送された。
現在ベルギーには4万2000人以上のユダヤ人が住んでおり、その3分の2がアントワープに住んでいる。 アントワープのユダヤ人コミュニティ約 20,000人は、ヨーロッパ最大の単一コミュニティの 1 つで、イディッシュ語が主要言語である世界でも数少ない場所の 1 つです。
アントワープのユダヤ人の子供たちの95%がユダヤ人の教育を受けています。ベルギーには 5 つのユダヤ系新聞があり、45 以上の活動中のシナゴーグがあり、そのうち 30 はアントワープにあります。

オランダにおけるユダヤ人

 オランダにおけるユダヤ人の歴史は16世紀に始まります。現在オランダとして知られる地域はかつてスペイン帝国の一部でした。当時スペイン統治下で禁止されていたプロテスタントキリスト教を実践したいという願望が動機となり1581 年にオランダ北部の州が独立を宣言します。宗教的寛容が国家の重要な要素となったオランダに世界各地で宗教的にも抑圧されているユダヤ人の注目を集め多くのユダヤ人がオランダに移住した。  
ユダヤ人はオランダの植民地領土と国際貿易の発展に大きな役割を果たし16世紀には海外との交易で急速に発展します。(西欧の大航海時代を参照してください)
 第二次世界大戦中の 1940 年 5 月にナチスドイツがオランダを占領しオランダのユダヤ人口の約75パーセントがホロコーストで殺害されました。

ポーランドにおけるユダヤ人

 東ヨーロッパのポーランド王国などのスラブ系民族の地域は早くからユダヤ人が移住していた。はじめは、6~10世紀ごろ、南ロシアの草原にあったハザール国がユダヤ教を受容してユダヤ化し、ヴォルガ川などの通商路に沿って北上し定住したことによる。
東ヨーロッパは、13世紀前半にモンゴルの侵攻があってスラブ社会がいわゆるタタールのくびきが及んだが、ポーランド王国はモンゴル軍が引き揚げた後の13世紀の中頃、商工業の育成のためにユダヤ人を招聘した。
多数のユダヤ人がポーランド王国に移住してきました(彼らの中心地は南ポーランドのクラカウでした)。ユダヤ人の多くは商工業に携わってポーランド王国の交流に貢献する。彼らは一定の自治が認められ、手工業や商業、あるいは国王の財政官に取りたてられるなど安定した社会を形成し、それを背景にタルムード研究などの文化を発展させた。彼らはドイツ語にスラブ語やヘブライ語を取り入れたイデッシュ語を話しヘブライ文字を用いており、アシュケナージといわれている。
14世紀にはリトアニアと一体化して広大なリトアニア=ポーランド王国を形成し、その領土は現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ一帯に及んだ。
 しかし、17世紀、一転して東ヨーロッパのユダヤ人は危機を迎えた。1648年、ポーランド王国の支配下にあったウクライナで、頭目のボグダン=フメリニツキーに率いられたコサックが反乱を起こし彼らはユダヤ人に対する襲撃を開始した。
ポーランド王国のもとで保護され、社会的にも安定した生活を行っていたユダヤ人に対する反発があった。まもなくポーランドにはコサックの反乱を支援するロシア軍と、ロシアに対抗するスウェーデンが侵攻し、外国軍隊によって国土が荒廃する“大洪水”といわれた社会不安の中で、1648~1658年までの10年間で約10万人のユダヤ人が虐殺されたといわれている。
大規模なユダヤ人迫害はその後も続き、ポーランドのユダヤ人はほぼ絶滅し、北部地方に逃れるか、西ヨーロッパに逃れていった。西のドイツでは、1648年のウェストファリア条約によって小領邦国家が独立し、それぞれが国家運営でユダヤ人を必要とする面があったため、ドイツに戻ったユダヤ人が受け入れられる状況があった。
17世紀以降は、プロイセンとロシア、オーストリアの三国によるポーランド分割によって18世紀末には国家は消滅した。独立を回復したのは第一次世界大戦後であるが、第二次世界大戦が始まると東西からドイツとソ連に侵攻され、再びポーランドは分割支配された。戦後のポーランドはワルシャワ条約機構の加盟国としてソ連の衛星国家となったが、社会主義経済体制が行き詰まった20世紀末に東欧社会主義陣営は崩壊した。
ポーランド共和国も自由化、資本主義化を遂げ、2004年にヨーロッパ共同体に加盟した。

旧ソ連邦におけるユダヤ人

ロシア
 
17世紀のプロイセンとロシア、オーストリアの三国によるポーランド分割の結果、ユダヤ人の多くが住んでいた地域はオーストリアとロシアの領土になりました。
エカテリーナ女帝は当時未開の土地が残っていたウクライナの土地をユダヤ人に与えましたが、農業にあまり関心がなかった彼らは農地を放棄して1791年にロシアが建設した南西部の都市オデッサに移住し商業を営むようになりました。
当時の模様が映画になったのが「屋根の上のバイオリン弾き」です。後にオデッサからはユダヤ系の有名な音楽家が多数輩出しています。
1881年から84年にはポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害行為)が起こり、1903年からはユダヤ人の海外脱出が増えていきました。

ウクライナ
 ウクライナにおけるユダヤ人の歴史は1000年以上前に遡り、ユダヤ人コミュニティは、キエフ大公国(9世紀後半〜13世紀半)の時代からウクライナに存在していました。
 ウクライナ人民共和国 (1917~1920 年) 時代では、イディッシュ語がウクライナ語、ロシア語とともに国語となっています。当時、ユダヤ国民連盟が設立され、コミュニティに自治が与えられました。
 第二次世界大戦前には、ウクライナの都市人口の 3 分の 1 弱がユダヤ人で構成されていました。ウクライナ系ユダヤ人には、アシュケナージ・ユダヤ人、山岳地帯のユダヤ人、ブハラ・ユダヤ人、クリミア・カライ派、クリムチャク・ユダヤ人、グルジア系ユダヤ人などの異なるサブグループが含まれます。
 1821年、コンスタンティノープルのギリシャ正教総主教の死後、オデッサで反ユダヤ暴動が勃発し、ユダヤ人14人が殺害される最初のポグロムが記録されている。
 1915年、帝政ロシア政府は帝国の国境地域から数千人のユダヤ人を追放した。ロシア革命とそれに続く内戦中の1918 年〜1920年の間で推定31,071 人のユダヤ人がポグロムで殺害されました。20世紀初頭、反ユダヤ主義によるポグロムが続き、大規模な移民が発生した。
 
第二次世界大戦中、ベラルーシの22万5,000人を含む100万人以上のソ連系ユダヤ人が、移動殺害部隊アインザッツグルッペンと多くのウクライナ支持者によって殺害されています。ドイツ占領中のウクライナにおける民間人の損失は700万人と推定されている。
 1959年のウクライナのユダヤ人人口は84万人で、1941年の総数からほぼ70%減少した。 1989年時点で、ウクライナのユダヤ人人口は1959年の半分強です。
1990年代の共産主義崩壊中および崩壊後、1989年のユダヤ人の大多数は海外、主にイスラエルに移住し移住した。

ベラルーシ
 
ベラルーシのユダヤ人の歴史は8世紀に始まります。ユダヤ人は現在のベラルーシの土地のどこにでも住んでいました。 第二次世界大戦前、ユダヤ人はベラルーシで 3 番目に大きな民族集団であり、都市人口の 40% 以上(117万5千人)を占めていました。 ナチスによってユダヤ人90万人のうち80万人、つまりベラルーシユダヤ人の90%がホロコーストで殺害されたと推定されている。

エストニア
 
エストニアにおけるユダヤ人の歴史は14世紀に始まります。 ユダヤ人は19世紀にエストニアに定住したが、特に1865年のロシア皇帝アレクサンドル2世の法令により、いわゆるユダヤ人の「ニコライ兵士」とその子孫である第一ギルドの商人が定着した。

アルメニア
 アルメニアにおけるユダヤ人の歴史は2000年以上前に遡ります。 19世紀初頭に東アルメニアがロシアの支配下に入った後、ポーランドとイランからユダヤ人がエレバンに流入し始め、アシュケナージとミズラヒのコミュニティが形成された。
ソビエト共和国時代の第二次世界大戦後にはユダヤ人の人口は約5,000人に増加していましたが、ソ連の解体に伴い多くの人が国外に出たためユダヤ人人口は現在750人にまで減少している。
 エルサレムの旧市街には「アルメニア人地区」があります。なぜアルメニア人だけが3大宗教の聖地が集中する重要な場所に専用エリアを持っているのか不思議に思うのですが、アルメニアは、ローマ帝国より早く世界で最初にキリスト教を国教にした国なのです。ということでアルメニアは、キリスト教において別格扱いで、旧市街の中で断固とした存在感を示し続けています。

アゼルバイジャン
 アゼルバイジャンのユダヤ人の歴史の起源は古代後期にまで遡ります。歴史的に、アゼルバイジャンのユダヤ人は、主に山岳地帯のユダヤ人、アシュケナージのユダヤ人、グルジアのユダヤ人など、さまざまなサブグループに代表されます。
1920年代初頭、アゼルバイジャンとダゲスタンから数百人の山岳ユダヤ人家族がパレスチナへ向かい、テルアビブに定住した。
1972年から1978年にかけて、約3,000人がアゼルバイジャンを出国してイスラエルに向かった。

ジョージア
 
グルジア系ユダヤ人は、コーカサス地方のジョージア出身です。グルジア系ユダヤ人はジョージア州で最も古いコミュニティの 1 つで、その起源は紀元前 6 世紀のバビロン捕囚中にこの国に移住したことにまで遡ります。
1801年、ロシア帝国は東グルジアを併合しました。 19世紀初頭、アシュケナージ系ロシア系ユダヤ人はロシア政府によりグルジアへの移住を強制された。
アシュケナージとグルジア系ユダヤ人は互いに接触を始めたが、グルジアのユダヤ人はアシュケナジムを神を持たず世俗的な者とみなしていましたし、アシュケナジムはグルジアのユダヤ人を見下していました。ソ連はユダヤ人が宗教的慣行を維持することを許可していましたが、1924年のグルジア蜂起後、ボリシェヴィキ政府はシオニスト活動をすべて停止し、経済制限を課し、ユダヤ人コミュニティ全般を禁止しました。

非ユダヤ人のユダヤ国家

 6~10世紀、カスピ海・黒海・カフカス山脈に囲まれた南ロシアの草原地帯に存在したトルコ系の遊牧国家ハザール=カガン国(ハン国、王国)は、イスラームやビザンツと交易しながら、ヴォルガ水系でルーシなどとも交易して繁栄していた。8世紀にユダヤ商人の活動によってユダヤ教が伝えられると国王、貴族から民衆までその信仰を受け入れユダヤ教国となった。
トルコ系諸民族のほとんどはイスラーム教を受容したのに対し、特異なケースであり、ユダヤ民族でない人々がユダヤ教徒になる、つまりユダヤ人になったということで注目されている。
彼らはクリミア半島付近で存続したが、10世紀にキエフ公国の攻撃を受けて衰退、11世紀始めにロシアとビザンツの連合軍によって滅ぼされた。しかし、その遺民はロシアにおけるユダヤ人となり、第二次世界大戦後のイスラエル建国に加わった。      

ユダヤ人の区分

古代パレスチナを去って離散(ディアスポラ)したユダヤ人は移住先によってアシュケナジム(ドイツ・東欧系)、セファルディム(スペイン系)、ミズラヒム(アジア系)に大別される。

1.アシュケナジム

アシュケナージは、ヘブライ語でドイツを意味する語。複数形がアシュケナジーム。
イディッシュ語を使用するドイツ系ユダヤ人であり、イベリア半島のセファルディムとともに中世以降のユダヤ人世界を2分した。今日のイスラエルで首席ラビ職が2人おかれていることに象徴される。その宗教態度は根本主義的・厳格主義的傾向を示している。
 15~16世紀、ドイツでの迫害から逃れてポーランドなどスラブ圏に移住するが、東欧・ロシアで繰り返されたユダヤ人へのポグロム(集団虐殺)によって西欧、米国、オーストラリア、南アなどへ移住が拡散した。
 シオニズム運動の推進役をつとめ多くがイスラエルに移民した。イスラエルではセファルディムと比較して教育・文化水準が高く指導的な役割を担っているとされる。

2.セファルディーム

 セファルディは、ヘブライ語でスペインを意味する語で、スペイン・ポルトガルに移住したラディノ語を話すユダヤ人でアラブ・イスラム文化にも同化している。セファルディームはイスラーム帝国のもとでは庇護民(ズィンミー)とされ、スルタンへの人頭税を支払うことでユダヤ教の信仰の自由と自治を認められた。
150万人以下の少数派である。
ラディノ語とは、長い時間の中でスペイン語にトルコ語やアラビア語などを混合させた語で地中海世界のユダヤ人の支配言語になっていった。
1492年の非改宗ユダヤ人追放令により15~20万人が北アフリカ、イタリア、オスマン帝国に移住。
改宗「隠れ」ユダヤ人(コルベルソまたはマラーノ)は16世紀にオランダ他へ移住した。
3.ミズラヒム
 アシュケナジム以外のユダヤ人を広くセファルディムという言葉で指す場合が有りその時は、イスラム圏に居住した中東・アフリカ系をミズラヒムとして区分することがある。

イスラエルの歴史年表

(駐日イスラエル大使館の資料を参考にしています)

聖書時代 紀元前17~6世紀

17世紀頃
 アブラハム(族長)、イサク、ヤコブ、がイスラエルの地に定住
 飢饉によりイスラエルの民はエジプトへの移住を余儀なくされる。
13世紀頃
 イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出、シナイ砂漠を40年間流浪し、その間にシナイ山で十戒などのトーラー(モーセ五書)を授かる。トーラー(モーセ五書)は、旧約聖書における5つの書、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」のことです。
13世紀〜12世紀
 centuries イスラエル民族がイスラエルの地に定住
 1020 ユダヤの王政が始まる(初代王:サウル)。
 1000 エルサレムがダビデ王国の首都となる。
 960 ソロモン王が民族的精神的象徴の第一神殿をエルサレムに建設。
 930 王国がユダ(南王国)とイスラエル(北王国)に分裂。
 722〜720 イスラエル王国がアッシリアに敗北し10部族が追放される。
 586 バビロン 捕囚
     ユダ王国がバビロニアに征服され第一神殿が破壊される。

第二神殿時代

ペルシア・ギリシア時代 538〜142
 
538-515 多数のユダヤ人がバビロンから帰還、神殿を再建。
 332 アレクサンダー大王がイスラエルの地を征服。
     ギリシアによる支配が始まる。
 166-160 ユダヤ教の制圧と神殿の冒涜に対するマカビ(ハスモン)の反乱。
 142-129 ハスモン朝下でのユダヤ人による自治。
 129-63 ハスモン朝下でユダヤ人が独立。
ローマ支配 紀元前63〜紀元後313
 63 ローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占領。
 
63〜64 ローマのヘロデ王がイスラエルを支配。第二神殿を改築。
 20〜33 ナザレのイエスのミニストリー(伝道活動)
 66 ユダヤによる反ローマ蜂起
 70 エルサレムと第二神殿の崩壊
 73 マサダのユダヤ人玉砕
 132〜135 バル・コフバによる反ローマ蜂起
 210 口伝律法(ミシュナー)が成立

ビザンチン時代 313-636

 390 ミシュナー解釈書(エルサレム・タルムード)の完成
 614 ペルシア侵攻

アラブ征服時代 636-1099

 691 カリフのアブドゥルマリクがエルサレムの第一神殿及び第二神殿の敷地に、「岩のドーム」を建造。

十字軍時代 1099-1291

マルムーク朝時代 1291-1516

オスマン帝国時代 1517-1917

 1564 ユダヤの法典「シュルハン・アルーフ」出版。
 1860 エルサレム旧市街の城壁外に初の居住区が建設される。
 1882-1903 主にロシアから、第一次アリヤー(大規模移民)。
 1897 スイスのバーゼルでテオドール・ヘルツェルが第1回シオニスト会議を召集、世界シオニスト機構が創設される。
かつて王国があったパレスチナの地に戻り国をつくろうという「シオニズム運動」が起こる。
 1904〜1914 第二次アリヤー(主にロシアとポーランドから)。
 1909 シオニズム運動の一環として、パレスチナ開拓会社が購入・借入した土地に、ユダヤ人労働者の中から移住者を募る形でガリラヤ湖南岸、ヨルダン川のほとりに入植村デガニアが建設された。 この村の創設時の形態が、現代のキブツ(集産主義的共同組合)の原型となった。
最初の近代的ユダヤ都市テルアビブが作られる。
 1914 第一次世界大戦。
 1915 フセイン=マクマホン書簡
イギリスは、当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国の崩壊を目指し、アラブ人に「オスマン帝国と戦えば、独立国家をつくる」と約束します。
 1916 サイクスピコ協定(英仏が中東を分割支配する密約)。
 1917 バルフォア宣言
第1次世界大戦の時、イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持する」と約束する。ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドからの資金援助を狙い外相バルフォアからロンドンの第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドへの書簡という形を取ったが、イギリス政府が正式に表明したものとして公開された。
 1917 英国の占領により、400年に及ぶオスマン帝国支配が終焉。英国のバルフォア外相が、パレスチナのユダヤの祖国建設支持を宣言。

英国統治領時代 1918〜1948 

 1919〜1923 第三次アリヤー(主にロシアから)
 1920 ヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)とハガナー(ユダヤ防衛組織)創設。ユダヤ人社会(イシュブ)運営のため、ヴァド・レウミ(民族評議会)を設立。
 1921 最初のモシャブ(共同村)、ナハラルが誕生。
 1922 英国が国際連盟からパレスチナ(イスラエルの地)の委任統治権を承認される。トランスヨルダンがその4分の3の地域に設立され、残りの4分の1がユダヤの地となる。委任政府に対してユダヤ人コミュニティーを代表するユダヤ機関が設立される。
 1924 テクニオン工科大学が初の工科大学としてハイファに創設される。
 1924〜32 第4次アリヤー(主にポーランドから)。
 1925 ヘブライ大学がエルサレムのスコープス山に創設される。
 1929 ヘブロンのユダヤ人がアラブのテロリストに虐殺される。
 1931 ユダヤ地下組織エツェル創設。
 1933 ナチスが政権につく。
 1939 第二次世界大戦勃発。
 1933〜39 第5次アリヤー(主にドイツから)
 1936〜39 アラブのテロリストによる反ユダヤ暴動。
 1939 英国が白書を発行し、ユダヤ人移民を厳しく制限。
 1939〜1945 第二次世界大戦:欧州でホロコースト。
 1941 地下活動組織レヒ創設、ハガナーの突撃部隊パルマッハ創設。
 1944 英国軍内にユダヤ旅団が編成される。
 1947 国連でパレスチナ分割決議採択。
 国連がパレスチナの地にアラブ国家とユダヤ国家を創設することを提案。
 1948〜1952 欧州及びアラブ諸国から大量移民

イスラエル建国 1948〜

 1948 英国委任統治の終了(5月14日)。イスラエルの独立宣言(5月14日)。アラブ5カ国(シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト)によるイスラエル侵攻(5月15日)。イスラエル国防軍(IDF)創設
 1948年5月~1949年7月 独立戦争(第一次中東戦争)
 1949 エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンと休戦協定締結。
エルサレムがイスラエルとヨルダンの支配下に分割される。
第一回クネセット(国会)選挙。
イスラエルが国連の59番目の加盟国として承認される。
 1948〜1952 欧州及びアラブ諸国から大量移民
 1956年10月〜11月10日 シナイ作戦(第二次中東戦争)。
エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言を受けたイギリスがフランス、イスラエルに働きかけ、協同で出兵し、エジプトに侵攻した。
 1962 アドルフ、アイヒマンがホロコースト犯罪により裁判を受け、死刑になる。
 1964 全国水道網が完成、北部のキネレット湖から南部の半乾燥地帯への配水が始まる。
 1967年6月5日 六日戦争(第三次中東戦争)。
鎖に対する反撃を口実として、エジプトに一気に侵攻、空軍がエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊した。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島・ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃した。
北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東イェルサレムを占領し、全イェルサレムを実効支配した。
イェルサレムの神殿の丘がイスラエル軍の手に落ちた。神殿の丘は、ハラム=アッシャリーフ(高貴な聖域)といわれ、1187年にサラディンに率いられたイスラーム教徒軍が十字軍から奪回した場所だった。以来780間、イスラーム教徒の手にあったこの丘が、イスラエル軍、つまりユダヤ人の手に落ちたのだ。イスラーム教徒の落胆と怒りは激しかった。
 1968〜1970 エジプトによる対イスラエル消耗戦争。
 1973 ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)。
第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍に対して攻撃を開始した。10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍はエジプト・シリア領に侵入していた。
 1975 イスラエル、欧州共同市場の准加盟国となる。
 1977 総選挙によってリクード政権が誕生、30年に及ぶ労働党支配が終わるエジプトのサダト大統領がエルサレムを訪問。
 1978 キャンプ・デービッドの合意により、中東の包括的和平とパレスチナ自治の枠組みが決定。
 1979 イスラエル・エジプト平和条約調印。ベギン首相(イスラエル)とサダト大統領(エジプト)がノーベル平和賞を受賞。
 1981 イスラエル空軍がイラクの原子炉を攻撃し、稼働を阻止。
 1982 イスラエルの三段階によるシナイ半島からの撤退が完了。
ガリラヤ平和作戦により、パレスチナ解放機構(PLO)のテロリストをレバノンから駆逐
 1984 選挙後、挙国一致内閣(リクードと労働党)が成立。モーセ作戦により、エチオピアからユダヤ人が移民。
 1985 米国と自由貿易協定を調印。
 1987 イスラエルの支配地域でインティファーダ(広範な暴力活動)が開始される。
 1988 リクード政権が選挙に勝利。
 1989 イスラエルが4項目和平を提案。旧ソ連からのユダヤ人の大量移民が始まる。
 1991 湾岸戦争でイスラエルがイラクのスカッドミサイル攻撃を受ける。
マドリードで中東和平会議が召集される。
ソロモン作戦により、エチオピアからユダヤ人が空路で移民
 1992 中国及びインドと国交を樹立。労働党のラビン政権が成立。
 1993 イスラエルとPLOが(パレスチナ人の代表として)、パレスチナ暫定自治の原則宣言に調印(オスロ合意)。
 1994 ガザ地区、エリコ地区におけるパレスチナ自治の実施。
バチカン市国と完全な国交を樹立。
モロッコ、チュニジアとの国交樹立により、利益代表部が設立される。
イスラエル・ヨルダン平和条約調印。
ラビン、ペレス、アラファトがノーベル平和賞を受賞。
 1995  西岸とガザ地区でパレスチナ人の自治が拡大; パレスチナ評議会選挙。ラビン首相が平和集会で暗殺される。シモン・ペレスが首相になる。
 1996 アラブ原理主義者による対イスラエルテロがエスカレート。 「怒りの葡萄作戦」により、ヒズボラによる北イスラエルへのテロ攻撃に対処。
オマーンとカタールに通商代表事務所を設立。
ビンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され、リクード率いる連合政権を樹立
オマーンの貿易事務所がテルアビブに開設される。
 1997 イスラエルとパレスチナ自治政府がヘブロン・プロトコルに調印。
 1998 イスラエルが建国50周年を迎える。暫定合意の実施促進に向け、イスラエルとPLOがワイリバー覚書を調印。
 1999 エフード、バラク(左派の「1つのイスラエル党」)が首相に選出され、連合政権を樹立。イスラエルとPLOが「シャルム・エル・シェイク覚書」に調印。
 2000  教皇ヨハネ・パウロ2世がイスラエル訪問。イスラエル、南レバノンの安全保障地帯から撤退。イスラエルが国連の西欧グループその他のグループへの加入を認められる。暴力行為の再発(第二次インティファーダ)、バラク首相が辞任。
 2001  アリエル・シャロン(リクード党)が首相に選出され、挙国一致内閣を結成。シャルム・エル・シェイク事実調査委員会報告(ミッチェル報告)発行。パレスチナ・イスラエル安全保障実施作業計画(テネット作業計画)が提案される。
観光相のレハブアム・ゼエビがパレスチナ人テロリストに暗殺される。
 2002 イスラエル、パレスチナ人テロリストによる大量攻撃に対して、「守りの盾作戦」を開始。イスラエルが、西岸テロリストによるイスラエル市民の殺戮を防止するために反テロ防御フェンスの建設を始める。
シャロン首相が国会を解散、2003年1月23日に新総選挙の実施を呼びかける。
 2003 シャロン首相、右派中道連合政権を樹立。
イスラエルが「ロードマップ」を受諾。
 2005 イスラエルが撤退計画を実施しガザ地区から全面撤退
 2006 シャロン首相が脳卒中に倒れた後、エフード・オルメルトが首相代行に就任。3月28日の選挙を経て、オルメルトがカディーマ党の新政権を樹立。イスラエル兵士の拉致事件を受けて、イスラエルがパレスチナ人テロリストに対する軍事作戦を実行。第二次レバノン戦争において、イスラエルが南レバノンのヒズボラのテロリストに対する軍事作戦を実行。
 2007 シモン・ペレスが国会で大統領に選出される。イスラエル、ハマスによるガザ地区の暴力的占領を受けてガザを「敵地」と宣言。
 2008 イスラエル建国60周年。
イスラエルがガザ地区から打ち込まれた10000発以上のロケット砲・迫撃砲に対して、ガザ作戦(キャスト・レッド作戦)を実行
 2009 2009年2月の総選挙でビンヤミン・ネタニヤフが首相に選ばれ、挙国一致内閣を樹立。テルアビブ市の市制100周年。
 2010 イスラエルが経済協力開発機構(OECD)に加盟。

タルムード(Tmlmud)

タルムードは、モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群である。
6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教の主要教派の多くが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっている。
ただし、聖典として認められるのはあくまでヘブライ語で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない。

大航海時代と・・・

大航海時代とは、15世紀半ばから17世紀半ばまでのヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代を指す。
イタリア・ルネサンスは、イタリアの探検家たちに極東や新大陸への新しいルートを発見させる原動力となり大航海時代の幕開けに貢献した。王室の貿易独占政策によりポルトガル、ついでスペインが強国となった。
ヨーロッパ人がヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニアを含む地球規模の貿易・植民活動を展開するようになり世界が一体化されます。
 まずポルトガルのリスボン、ついでスペイン、ベルギーのアントワープ、そしてオランダのアムステルダムが世界貿易の中心となった。

 アメリカ大陸の安価な銀の大量流入は全ヨーロッパに価格革命をもたらした。それによって南ドイツの銀鉱山は衰退し、北イタリア都市を中心とする地中海貿易、北ドイツ都市を中心とするバルト海貿易は、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどの大西洋を中心とする貿易活動に対して相対的に地位を低下させた。
また、ヨーロッパのアメリカ大陸やアジアとの遠隔地貿易は、貿易活動の中心地を大西洋沿岸諸国に移した。こうした世界的規模の商業や貿易システムの大変革は商業革命と呼ばれる。

大航海時代のポルトガル

アフリカ・アジア大陸征服
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの侵略を確保した。
1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカにて伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。
1460年ごろまでにポルトガルは、カナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。
1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
1488年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカット(コーリコード)に到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。
1500年、アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、カブラルがブラジルに到達し、トルデシリャス条約によってその地をポルトガル領に加えた。ポルトガル王マヌエル1世は、カブラルが発見した土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望み、アメリゴ・ヴェスプッチに探検を依頼、ヴェスプッチは、1501年から1502年にかけた航海で大陸東岸に沿って南下、南緯50度まで到達することができた。ヴェスプッチは、大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の緯度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることを、1503年頃の論文『新世界』で発表した。
1509年2月、フランシスコ・デ・アルメイダは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い(ディーウ沖海戦)、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。
 とは言うもののイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易しており、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。
 また、ヨーロッパに先駆けて中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。
このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。

大航海時代のスペイン

南アメリカ大陸征服
1486年、ポルトガルに遅れをとっていたスペインはフェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)と、その妻イサベルがコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がパロス港から西に出港した。
1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
スペインのカトリック国王フェルナンドが西インド探検航海を企画し、アメリゴ・ヴェスプッチは、1497年から1498年にかけてカリブ海沿岸を探検、1499年から1500年の航海ではカリブ海から南下してブラジル北岸まで探検を行った。
1513年、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、パナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて西回りでの太平洋に遭遇し、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸が地続きであることを発見した。
 スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。ポルトガルも、ブラジルにおいてスペイン同様に原住民から富を収奪した。

スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。

スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。

ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

西欧(フランス、イギリス、オランダ)の大航海時代

 ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったフランスやイギリス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。
こうした後発海運国は『トルデシリャス条約』によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。

後発海運国の最初の探検は、1497年のイタリア人ジョン・カボットを雇ったイギリスによる北米探検であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。
イギリスの代理人カボット、フランスの代理人ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る最短の北西航路(大圏航路)を探すことが目的だった。

スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。
1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。
南米航路では、1522年のマゼラン艦隊の世界初の世界一周でフィリピンが発見された。
1580年、イギリス軍人フランシス・ドレークの2番目の世界一周により南アメリカのホーン岬やドレーク海峡が発見された。そうしたアメリカ経由の西回り航路の探索過程で北アメリカ大陸の海岸部の様相も明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちがいた。
当初はオランダ東インド会社に雇われていたヘンリー・ハドソンは数度の航海ののち、1609年に現ニューヨーク州のハドソン川に到達し、その後イギリスの植民地会社に雇われて現カナダの北東部の海を探検しアイスランド、グリーンランド、ハドソン湾などを発見した。
北アメリカ東海岸には、オランダのニューネーデルラント、ニューアムステルダム、イギリスのバージニア植民地、ニューヨーク植民地など大規模な植民地が築かれ始めた。

イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。
ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを、新興諸国の拠点香港やバタヴィアなどが包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。

北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた残る未知の地域については、スペインより先にオランダが探検した。1606年にはウィレム・ヤンツが、1642年にはアベル・タスマンなど、オランダの探検家がオーストラリアを探検している。

こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめとしたヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。

大航海時代に活躍した探検家

ヴァスコ・ダ・ガマ

クリストファー・コロンブス
イタリア、ジェノヴァ出身の探検家。
1484年末、ポルトガル王ジョアン2世に航海のための資金援助に加え、高い地位や権利、そして収益の10%という条件をだしたが王室は数学委員会の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。
スペインの財務長官サンタンヘルは、1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことでスペインに財政上の余裕ができた事を女王に指摘した。コロンブスの計画に興味を持っていたイサベル1世はフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはコロンブスの計画を承認し「サンタフェ契約」を締結した。
アメリゴ・ヴェスプッチ
フィレンツェ生まれのイタリア人航海者。
1499~1500年の航海でヨーロッパ人として初めてブラジルに達している。
1501~02年のポルトガル王の援助で行った航海で南米大陸をほとんどマゼラン海峡近くまで南下した彼は、これはアジアではなく、新しい大陸との確信を得、新大陸説を唱えた。アメリカという地名は、彼の名アメリゴにちなむものとされる。
フェルディナンド・マゼラン
大航海時代のポルトガル出身のスペインの航海者。
16世紀はじめ、スペイン王の命令で1519年に西回り航路を取り出航、マゼラン海峡を発見して太平洋に乗りだし1521年にフィリピンに到達。彼自身はセブ島で殺されたが、船団は1522年にスペインに戻り、最初の世界周航に成功した。
マルコ・ポーロ
13世紀、元のフビライに仕えたヴェネツィアの商人でヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』著した。

世界の大財閥

金融は経済の血液といわれていて、一国の興亡に大きく関わっています。東欧で大国として君臨した時代の有るポーランド、大航海時代のスペイン、ポルトガルの繁栄、大航海時代後発のオランダ、フランス、イギリスの繁栄、21世紀のアメリカ、の歴史を辿ればそこにユダヤ人のお金に関する知識知恵が存在したことは明らかです。

世界最強の財閥

ロスチャイルド(国際金融財閥) Rothschild の家祖 Mayer Amschel(1744~1812) は5人の息子達を5つの都市に移住させる。
長男 Amschel Mayer(1773~1855) フランクフルト
二男 Salomon Meyer(1774~1855) ウイーン
三男 Nathan Mayer(1777~1836) ロンドン
四男 Carl Mayer(1788~1855) ナポリ
五男 James Mayer(1792~1868) パリ
 現在は、ロンドン、パリ以外は閉鎖されパリ家とロンドン家が共同所有する金融持株会社ロスチャイルド & カンパニーは、Rothschild 家祖 Mayer Amschel の五男 James Mayer の系列に連なる Alexandre de Rothschild が7代目当主となっています。 
 ワインの世界でも Rothschild 家が存在しています。ボルドーワインには格付けが有り Rothschild 家が所有するシャトー2つが、第一級シャトーとなっています。
*Chateau Lafite Rothschild は、家祖 Mayer Amschel の五男 James Mayer(パリ) の長男 Alphonse が創設したワイン生産部門です。
*Chateau Mouton Rothschild は家祖 Mayer Amschel の三男 Nathan Mayer(ロンドン) の三男 Nathaniel が創設したワイン生産部門です。
その他の第一級シャトーは「Ch.ラトゥール」「Ch.ブリオン」「Ch.マルゴー」です。

世界3大財閥

ロスチャイルド(国際金融財閥)
モルガン(国際金融財閥)
ロックフェラー(石油王)

染色体からみるユダヤ人


参考動画;https://www.youtube.com/watch?v=JcK4VHFCZRQ

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