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正負の法則差し引きゼロを心得よう

割引あり

この世の中は正と負がお互いに同量ずつ存在する。
光と闇とか表と裏とか男と女とか。
何かがある量だけあるとそれと同じだけの反対の量が同じだけ発生する。
これは世界がバランスをとるためにどうしてもそうなってしまう。

例えばある人が自分に対してきつく当たる場合
それに対して同量だけ自分に対して優しくしてくれる人が現れる。

逆にある人ととても幸せな日々を過ごしている場合
逆に職場ですごく嫌な人が居るなど

幸せや不幸と同量の不幸と幸せが存在する。

そのどちらにしろ幸と不幸はセットで同量ということをまず知っておくと、幾分気持ちも楽だしそもそもそのことを知って受け入れると、ああこれが愛なんだなという愛の気持ちが心にじわっと広がっておすすめである。

ではなぜ幸せと不幸が同量であるはずなのに
人生において幸せだった日々とつらい時期とが記憶に残るのだろうか?

これは自分のしたいことをしたかしたいことをやれなかったかで分かれてくる。

例えば思う存分自分のやりたいことに人生を注げて、その同量だけ周りの抵抗にあったとしても、心に残るのはやったという充実感が残り、それは幸せな日々として心に残る。

周りの反対やきつい当たりがあっても、自分のやりたいことをやれているから本人としては幸せそのものだ。

たとえすべてが帳消しになったとしても、やりたいことをやれた記憶はずっと幸せな日々として残るだろう。

それに対してやりたいことをやる事もなく、嫌がらせを受けたり、やりたくもないことをやる日々を過ごした場合、
その陰には励ましてくれる友人が居たり、励みとなる推しにはまったり、それなりにマイナスを打ち消してくれる存在が必ず現れて、正負は打ち消しあいバランスが取れるのだが、
いかんせん自分のやりたいことをやれていないという悶々とした気持ちや、やりたくもないことをやったという苦しみは、記憶の中にそのまま残るのだからのちの人生において、その時期はつらかった時期として記憶に残る。

だから幸不幸としてはトータルゼロでバランスは必ず取られることになるが、自分が望むことをしたかどうか人生においてやりたいことをやっているかというそもそもの根本的なところで満たされるか満たされないかという、願望実現の満足感がものをいう。

そういう意味ではやりたいことをやった方が、どうせ帳消しになるにしても自分の中での満足感納得感が桁違いであるという現実がある。

だからやりたいことをやろうというわけだ。

やりたいことを見つけるためには、まず自分が何を望んでいるかを知らなくてはならない。

その為にはノートを用意して、そこに日記を書くことをお勧めする。

日記を書くと心と頭の中が整理されて、より自分の事がクリアに見えるようになる。

また日記というとその日あったことを書くというイメージだが、
そこから派生してジャーナリングという手段もあるのでやる価値はある。

ジャーナリングは日記とは別で、ノートを用意して手にペンを持ち自分の心

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