僕は骨を噛む 3
瑞穂 陽尺
三、
彼と一緒に歩いていると、本当は自分に目的があって病院内を徘徊していたように思えてきた。
僕は何か捜していたのではないか。死の匂いをどこかで嗅ぎつけていてその源泉を突き止めてみたかったのではないか。彼の申し出に飛びついたのは、そういうことなのではないか。ずっと前から死体を見たかったのではないか。
そう自分に問いかけながら胸は暗く高鳴っていた。
荷物用エレベータに再び乗って一階まで降りた。そこからさらに隣の棟の地下室へ降りていった。
階段を降りると冬の外気とはまた違った冷たい空気が頬を舐めてくる。手すりに触れると凍らない湿気が手にまとわりついてきた。来てはいけないところに来てしまったのではないか、そんな気がした。
ほらここだよ、と言われて見た薄暗く長い廊下の両脇にドアが幾つも並んでいた。人気はなく、静まり返っている。朝に来ても夜に来ても、夏に来ても冬に来てもきっとここは同じなのだろう。照明があたっているところも暗く見えてしまう。
何故だろう? 僕は目をこすってみたが、遠くの方は何故か霞んでよく見えなかった。
医師は今度は僕の手を引いてその廊下へ歩み進んだ。冬なのに彼の手は熱く、汗ばんでいた。
特別な寒気のするこの廊下では、暖かさがありがたく感じられるはずなのに、僕は何故か一層の寒気を感じていた。彼の大きな掌が馴染みのない熱さを帯びていたからだ。
廊下の中程に来ると医師は入り口にかけられた番号札を確かめ、鍵束を取りだしてドアを開けた。
古い蝶番からキィ、と耳障りな音がして身を竦ませた。手を引かれ中に入ると、医師は手探りもせず電灯の紐を引いた。廊下よりも暗い蛍光灯がカチカチっと小さく音を立てて点灯した。
小さく息を吸い込むと、黴と薬品が混じったような匂いの空気が僕の中に入ってきた。
部屋の真ん中では、僕が横たわってもはみ出しそうなサイズのベッドの上に真っ白で大きなシーツがかけてある。シーツは人の形に盛り上がっている。部屋と縦横を合わせて置かれたベッドの胸の辺りは一段高くなっていた。
「これは女の死体だよ」
僕の先回りをしてそう言うと医師はシーツに手をかけ、手品師のように素早くはぎ取った。そこに現れたのは青白く透き通る肌の若い女性だった。
何も纏わない身体は丸みを帯びた美しい線を描き、暗がりの中でぼんやり浮かび上がっていた。
身体には死の徴となるものは一切ない。薄色の乳首、若木のような腕、絹を被せたような腹、眩しい茂み。
どこを見ても生きていないという証が見当たらなかった。僕は慣れない興奮を覚えてさえいた。どこかに触れたら動き出すのではないかと思えた。
目の前の女性は思い描いていた死体とは別物だった。肉が崩れ落ちて骨が顔を覗かせたり、体中に血糊がべったりついたりしているのが僕にとっての死体だった。
何かの冗談でないのかとさえ思った。精巧な人形だと云われても納得しただろう。こんなに綺麗な死体があるはずがなかった。これは死体ではない。
「死体に見えないだろう?」
またも医師は先回りをして笑った。いつの間にか口元を卑しくひきつらせ、愉快そうに。僕はまだ医師に対して体面を保とうとしていた。
綺麗すぎて死体には見えません、と丁寧に答えた。すると彼は死体の横に行き、死体の左腕をとって手首を僕に見えるように上げた。
女性の手首には血管と交差する裂け目があった。滑らかな肌に谷のような深い傷が穿たれ、その周囲は盛り上がりどす黒く変色していた。医師はもっと近くにおいで、と手招きをした。僕は彼女に手が届きそうなところまで近づいた。
「昨日、男の家で自殺したんだ。愚かな女だよ。そんなところで命を絶つなんて」
「こんなに綺麗な人が自殺するなんて。それに死んでいるようには見えません」
「これは紛れもなく死体だ。それ以上でもそれ以下でもない。もう人間じゃない」
医師は得意げにそう言い放った。その時、喉元へ言葉が遅れて逆流してきた。僕はその反駁を抑えた。
こんな美しい女性を、いや死体を冒涜するな、という言葉を。しかし、そんなことを言って何になる。この女性は僕の大事な人ではないし、抗弁してくれと頼まれているわけでもないのだ。この女性は死体で、何も言わずただそこにあるだけではないか。
「触ってみるかい?」
またも先回りされたような気がした。触れてみたい、という気持ちが自分にあったことをその言葉で知らされた。
僕は頷いて恐る恐る手を伸ばした。そして触れようとしたまさにその時、医師は言った。
「気を付けて。うつるかもしれないから」
驚いてビクッと手の動きを止めた。うつる? どういうことか。
「死がうつると思うかい?」
どう答えていいのか分からなかった。
「ときどき死はうつるのさ。君みたいに若いと特にうつりやすい。何も始まっていないのが触れると身体の中で腐敗が始まるんだ。そうなると人間はゆっくりと死に近づいていく。いや、ひょっとしたらうつるんじゃなくて、もともとあったものが呼び覚まされるのかもしれないな。死に触れると中にある仕掛けが動き出すんだ」
「すぐには死なないんですか?」
少し考えて聞いた。
「ああ。君の中の仕掛けは触る前からもう動いているかもしれないし、動いていないかもしれない。動いているんだったらうつることはないし、動いていないのだったらうつってしまう。どういうことか分かるかい?」
「どっちにしても仕掛けは動いてる?」
「そう、よく分かったね。人間の腐敗は止められないのさ。生まれたときからもう始まってる。人間はどっちみち死ぬことになってる。だから、君はそれに触っても何ともないよ。触ろうが触るまいが、いつかは死ぬんだ」
僕は医師の話し方に嫌悪感を覚え始めていたと思う。覚えた、と言い切れないのはこの時、話に引き込まれていたからだ。僕は彼の口元を凝視して次に何を言い出すのか黙って待っていた。
「ああ。ごめんよ、邪魔をして。さあ、触ってごらん」
医師に言われて女性の腹部に掌で触れた。どうだい? と訊いてきた。
「冷たいです。それに少し固い」
感じたままに言うと医師は、もっと他のところに触ってごらん、と言った。
僕がおずおずと脇の部分で手を動かしていると彼は後ろに回り、手をとって女性のいろんなところに触らせた。触る場所によって手を引っ込める僕の反応をみて楽しんでいるようだった。
「君の知ってる乳房や太股と比べてどうだい?」
そう訊かれて、前に悪戯で触った姉の膨らみを思い出し比べていた。そしてやはり固いです、とだけ答えていた。
しかし、触っているうちにただ固いだけでなく、表面は柔らかく、固いのはその下であることが分かってきた。
そしてそれを固いと感じたのは、押しても返ってこないつくりもののような筋肉のせいだった。
僕は口の中をギュッと噛み、僅かでも歯を押し返してくる自分の肉の感触を確かめた。安堵のような優越感のような感情が湧いた。そうだ、反応がないのは肉ばかりじゃない。
今、死体に何かをしても何も起こらないだろう。腕を動かしてくれませんか、と呼びかけても何もしてくれないだろうし、こちらで腕を動かそうとしても簡単には動かせまい。
死体には応えてくれる気配が全くない。期待もできないのだ。それは昨日彼女が死んだ瞬間にどこかへサッパリ消え去ってしまっている。
いっぱいに広げた掌からは化学物質のように無機質な冷たさが、手甲からは覆い被さる医師のじっとりした手の熱が伝わってきた。冷たさが熱を、熱が冷たさを際立たせていた。
僕の手は死と生に挟まれていた。動かない肌と小刻みに震える手のコントラストがそれを一層強く感じさせた。医師はもっと指を動かして肌の感触を確かめるよう勧めた。それから僕の手を上の方へ動かした。指先が女性の頬に触れた。シミ一つない滑らかな肌だった。
「この女の頭を切り開くことができたら、どれだけ空っぽか見せてあげられるのにな」
僕は振り返り、医師の顔を見た。
「今、この頭の中は空っぽなんだ。でも死ぬ間際まではそうじゃなかった。男のことでいっぱいに満たされていたんだろう。だけど、それを失って頭の中は空っぽになってしまった。その時、死ぬことが頭をよぎった。だから死んだ。手首を切って自殺したんだ」
医師は女性の前髪を弄びながら言った。
それを聞いて女性が死ぬ時の気持ちを想像してみた。しかし、僕はまだ恋愛をしたことがない。だからこの女性の気持ちを想像することができるはずもなかった。所在なさげに女性の顔を見る僕を医師は満足げに見下ろしていた。
「どうして死体を見てみたいと思ったの?」
目を逸らして分かりません、と答えた。
「何故、死体を見てみたいのか? 何故、死が気になるか? それは君が世界を理解したいと思っているからさ。死という鏡を見ればこの世界が少しは見えてくるからだ。僕らは本能的にそれを知っているんだよ」
え、どういうことですか? そう聞き返すと、医師は愉快そうに声を立てて笑った。
そして重ねていた手を離すと、僕を後ろから両腕で柔らかく抱えて言った。
「君は話していてもえくぼができるんだね」
医師が耳元で不必要なくらい小さい声で囁いた。僕の身体を羞恥が走った。
「お父さんはまだ入院してるんだろう?」
僕は素直に頷いていた。
「これからも毎週来るんだよね?」
彼がそう言った時、いつの間にか自分の右手が掴まれて後ろに回されているのに気付いた。
手甲に吸い付いた彼の手に操られ、ねっとりしたものに触れたかと思うと掌いっぱいに思いがけない熱を感じた。僕の右手に彼のペニスが握らされていたのだ。
驚いて振り返ると医師は舐めるような視線を僕に投げかけ、次も死体を見せてあげるよ、と言いながら首筋に口づけてきた。
頭痛のような嫌悪感が走り、アドレナリンが背筋を踏みつけて身体中に散らばっていった。
僕は反射的に医師を突き飛ばした。姿勢を崩されて呆気にとられた彼の無様な下半身に一瞥をくれ、ドアから廊下へ駆け出した。冷気が滞る階段を上る途中で後ろから罵りのような叫び声が聞こえたが、何を言っているのかよく聞こえなかった。とにかくそこから離れようと全力で外へ走り出た。
外は寒く、荒く吐き出した息は白く凍り付いていた。雪が止んで昼時のせいか外を歩く人が多くいた。
彼らはいきなり現れた僕の方を少し驚いた様子で見ていた。僕は言い訳するように顔を背けて深く呼吸した。
そうだ、最初から外に出てみれば迷わなかったんだ。そう呟いて、額の汗を拭った。汗に濡れた額が、あの廊下の手すりのようにじっとりしていた。
(続)
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