あふれでる蜜

言葉ではなかなかうまーく言えないことを表現できる人は貴重だと思います。

 さて私の子供の時からずっと朝起きる原動力となってきたものはなにかというと、自分の中のワクワクしたものですが、それは自分の中で与えたい与えたいという蜜がもうあふれそうになっていて、その受け壺を探して外に飛び出していったような気がします。また逆に見事な動きをする生き物を追いかけたかったのはそこにきらきら結晶してはじけそうな輝きに魅かれるしかないからです。何があるのか開いてみたい、味わってみたい。五感は蜜や光やを受け止めるために、与えられているものです。

 生き物たち、自然の息吹き、友達の笑顔や声、みんなそこにあふれているものがあるからあげたい、もらいたい、混ざり合いたい。

 いろいろ試して身体も変わり受け止められる味わいも変わり、身体を探索したくなります。つまり成長したら思春期が来るようになっています。違う存在自分にない身体自分にないものを持つ自分にない性質をもち自分にない笑顔や声もしている。そんな異性の探索をしたいという源の力が流れだそうとします。それはすごいことですね。なぜいつからか私はそんな自分を恥じるようになったのか?まともに見なくなったのか、受け取ることを恥じるように、与えることを恥じるようになったのか。

 この質問に答えを出せたらと思います。

 尽きることがないものですからさらに世界は広がるはずです。身体の探索がなされたときみえてくるものがあるよね。


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