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暴君による支配

 我々 ヒト=ホモ・サピエンス は当然ながら動物である。ということはこれも当然ながら本能を持っていて、いくらどうひっくり返っても本質的な部分において、この聞こえない声の言いつけを無視することはできない。しかし我々は時に暴れ出そうとするこの本能に対して、理性という後天的に身につけた、しかも大きく個人差のある武器で戦っている。

 異性を求め求愛し、生殖活動の末に後世に子孫を残す。人生には実に様々なオマケや飾りが付いてはいるものの、この一連のスケジュール、またはシステムによって我々人間は太古の昔より途絶えることなく生を繋いでいるのである。人間の行動の動機は全てリビドー(性衝動)による とは、かのフロイト博士の言らしいが、心理学会においても色んな考えもあって全面的にはこの説が支持されているわけではない。しかし私は拍手喝采、もろ手をあげてこれに賛成するものである。

 神が生き物に与え賜うた数多の能力や特性は、終局的にはそれぞれその種を存続させる目的に繋がっているものだと思える。当然ヒトという動物におけるあらゆる行動の中で、最も重要かつ根底にある価値はその種を絶やさないことであることは間違いない。何度も言うが人の欲求というものは一人ひとりの勝手のようだが、実は全てが生殖活動に繋がるものなのである。何かをしたい、何かが欲しい、キレイ・カワイイ・カッコイイを目指すのは、要するに異性とお近づきになりたいという思いの表れでしかない。背が高くなりたい人、目を大きくしたい人、色が白くなりたい人、痩せたい人、高い車が欲しい人、ブランド物のバッグが欲しい人、いい学校に入りたい人、英語が話せるようになりたい人、資格が欲しい人、酒が強いのだと言いたい人、昔は悪かったんだと言いたい人、タトゥーを入れたい人、みんなみんなみんな、手段が違うだけで、そのことによって自分の価値を上げてモテたいということだ。

 ところで女性は男性を前にした時、その人の子供を産みたいかどうかという判断基準を持っているという。そのせいで男性に対して『生理的にイヤ』という評価を下すことが『設定』としてプログラムに組み込まれているらしい。『コイツの子供なんか死んでも産むか!』ということなのだろうか。一方男の方はといえば、『大嫌い』はあっても『生理的にダメ』はないという。

 神は我々オトコを現代の価値観をもってすれば、まるっきりクズな生き方をするように仕立てたようだ。なんとなれば次の世代にヒトという種を存続させる上でオトコに与えられた役回りは、災害や飢饉などで生き続けることが困難な運命に見舞われても種が途切れないように、アチコチにタネをバラまくことだからだ。よって『好きでなくても性的な関係になれる』という、女性から見れば鬼畜この上ない本能を持ち合わせているのがヒトのオスというものなのだ。その意味でオトコには女性のように目の前の異性を『門前払い』する選択肢が無い。それをいいことに、理性が無い=本能のまま生きるタイプのオトコは、ストライクゾーン広く数多くタネをバラまこうとする訳だ。もちろん生物学としてはそうであっても、現代においてそんなことをすれば社会的に抹殺されてしまうであろうし、許されることではない。

 女性というものを語る際にエストロゲンという性ホルモンが、逆に男性の場合には同じくテストステロンが引き合いに出されるが、それはヒトが生命を繋いでいく上での大きな戦略の核となるものであり、性ホルモンこそ、ヒト=ホモ・サピエンス という種が存続していくために神が仕掛けた巧妙な仕組みである。これら性ホルモンは、ある時期が来ると時限装置により生殖可能になるよう肉体に指令を出す。体の内外を変化させるだけではなく、さらに異性を魅力的だと思わせるのだ。『好き』という気持ち自体、こやつらがいなければ生まれる感情ではないし、さらに言うなら嫉妬や独占したい、束縛したいと思う気持ちさえ性ホルモンの仕業である。

 私の職場である学校でも、ある男子生徒に入れ揚げていた女生徒が、涙の失恋後しばらくして、『なんであんなクズのことを好きだったんだろう?』という状態になるのを目にすることがあるが、ヤツら性ホルモンが支配をゆるめたせいで宿主の女性が我に帰っただけのことだ。これは推測でしかないが、俗にカエル化と呼ばれる急速な沈静現象も、この類いなのかなと私は考えている。

 我々はほんの微量のヤツらに完全に思考や行動、はては人生の重要な部分を握られているのだが、私たちを支配するこのボスは民主的という方向性とは真逆に位置する残忍この上ない暴君である。しかもそのやり口は巧妙かつ老獪であり、知らない間に音も立てずに忍び寄る、まるで体内を自由に行き来するステルス爆撃機のようだ。

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