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マウント

 人間は、自分が立っている場所の高さを無意識に他人と比較して、所属するコミュニティの中にあって少しでも上位であろうとする。それによって安心したり優越感や劣等感を感じるのも我々人間の性(さが)である。しかし他の動物と違うところは、人間の場合は単純に力の強さだけが集団の中における地位とはならないところだ。神が与え給うた人としての価値のモノサシには『力の強さ』の他に、『経済力』、『頭の良さ』、『若さ』、『顔の美しさ』、『プロポーション』、『住んでいる場所』など様々な基準があり、それらは全て神が仕組んだ『他人と自分との差を認識させる機会』なのだと思う。様々な基準によって人より上を目指し続けるような競争本能を我々に与えているのだ。相対評価のモノサシがいくつもあるのは、価値を感じる基準は人によって様々だからだ。できるだけ多くの人間がいずれかの競争に参加するような仕掛けなのだというのが私の考えだ。もちろんこの競争はヒトという種の保存のための仕組みである。

 ただし神に植え付けられたこの価値観は、向上心を生み出す反面、ライバルを蹴落したい考えにも繋がる。『他人との比較 = 相対評価』であるためだ。そんな人間のドロドロした競争原理は、地球上に存在する人のあらゆる世界、あらゆる階層で起こる。貧乏人は自分よりさらに貧乏な人を馬鹿にするし、過疎地に住む人は より田舎に住む人をバカにしようとする。私自身、家庭の事情で郷里の五島列島より 長崎市内の小学校にごく短期間だけの引っ越しをしたことがあるが、市内に住むクラスメイトが私を見る目は、田舎者を蔑む以外の何ものでもなく、正に『都会人マウント』を取ってきて鬱陶しい思いをしたことを今も覚えている。まさに『お前らも同じ田舎者ではないか?』に尽きる。

 例えば『美』に対する競争をさせ、より美しくなろうとする女性と、それを見て美しい女性には高い評価を与える男性。これは生命の神秘なんかではなく作られた設定なのである。
 同様にブランドものが好きで身につけたいと思う人は 人より金持ちであるということにステータスを感じているのだろうし、タトゥーを入れたい人は人より悪い = 強い ことが嬉しい。病気自慢や苦労自慢は それを乗り越えたすごい人だと特別視されることが誇らしい。出身校が自慢の人は頭のいい人だと思われることが三度の飯より好きなのだ。これらは全て他人に差をつけたい、相対的に自分の位置を高くしたいという表れなのである。そう考えれば考えるほど情けない気持ちになってくる。

 マウント。神に押し付けられ操られているこの本能は、精神的な貧しさだなぁと思えてしまって悔しくて仕方ない。なんとか解脱できないものなのだろうか・・・。

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