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遺伝子の幸福論 ~ヒトは旅をしサッカーで殴り合う~

「精神と時の部屋」


研修医の頃、医局でそう呼ばれていた当直のアルバイトがありました。

毎月やってくる、長い、とても長い修行。いつも最後の方になると大抵こんなことを考えていました。

「幸福って何だろう?」


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こんにちは。円子文佳(まるこふみよし)と申します。


仕事は精神科医をしています。旅とサッカー観戦が趣味で、そのため日本や世界の色々なところを訪ねています。


Jリーグでは柏レイソルを応援していることになっています。柏は浮き沈みが激しいチームで、ここ数年でもJ2からACLまで渡り歩いています。僕も愛媛や山形などJ2の地方はもちろん、中国・貴州、サウジアラビア・リヤドなどにも行きました。今年はまたJ2ですが、早速山口に行けるのが楽しみです(と強がってみます)。


代表サポ同士のつながりもあって、今回『OWL magazine』でプロジェクトオーナーを拝命致しました。オーナーとかいうと格好よさげな呼称ですが、つまりは会計係のことのようです。赤字が出ても頑張ります。文章も書いていきます。よろしくお願いいたします。

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「精神と時の部屋」とは、元々は漫画『ドラゴンボール』に登場する、修行する以外何もできない真っ白な空間のことでした。

そして当時、医局から田舎の静かな病院に派遣され、20時間ほど何もせずただ過ごすというアルバイトがありました。研修医内でいつしか「精神と時の部屋」と呼ばれるようになりました。

絶対に何も起こらないけれど(もし急変などがあっても院長が対応するので当直医には連絡が来ない)、土曜の夕方から日曜の昼まで当直室に滞在するというものでした。それで何故かアルバイト代がそこそこ出ていました。


月1回ぐらいのペースで当番が回ってきました。3・4回も勤務をすると、本棚の『こち亀』や『ゴルゴ13』は全巻読みつくしてしまいました。その後は、毎月毎月何も刺激がない環境で、20時間ほど過ごすという羽目になりました。何もしなくていいというと一見天国のように聞こえますが、実際にやってみると精神修行であり荒行でした。まさに「精神と時の部屋」です。

毎月何もすることがなくなり、思索の果てにこのようなことを考えていました。


「幸福とは何だろう」と……。

(修行のイメージ。このような当直室があるわけではありません。ロシアW杯で泊まったホテルのジムの写真です)


・幸福とは何だろう

当時の僕はまだ20代で、どこにでもいるような悩める若者でした。そして自分が何をしたいのか、何をするべきなのか、自分の幸福がどこにあるのかが全然わからずに、年月がただ経過していました。

「精神と時の部屋」は月に1回程度でしたが、それ以外の日々も方向性を決められず日常を漂っていたようなものでした。逆に例のアルバイトは、何もできずに時間が経っていくという、当時の生活の縮図であったとも言えます。

今では若者とは言えないような年齢になり、それでもまだ迷うことはあります(惑わない年になったはずなのに)。しかし修行の成果もあってか、「だいたいどの辺に答えがあるか」はわかるようになってきました。


人は生存が保証されていればそれで幸福なのかというと、そんなことはないなと僕は思います。では人の幸せとは何でしょう。

僕は「幸福とは、人間の本能が高いレベルで実現しているとき」に感じるものではないかと考えるようになりました。生存や安心、食事や睡眠などによっても人間の本能は満たされますが、より高いレベルでの実現に幸福がある、というイメージです。

そして過去の自分の幸せな瞬間、人生のハイライトが具体的にどこにあったかを振り返ってみると、意外なことに気づきました。

僕にとっての幸福な景色には、旅と仲間、そして時々サッカーがあったからです。

僕だけが特別なのでしょうか?

いえ、旅とサッカー、そして仲間は多くの人にとっても「幸せの鍵」であると思います。

でもそれは、なぜでしょうか?


・人は旅をする動物

まずは旅について。

ヒトという種は、およそ10万年前よりアフリカを発祥に、世界中に広がっていったと考えられています。

「世界中」と一言で言ってしまいましたが、飛行機などもある今の時代とは違って、当時の世界は遥かに広大でした。それなのにヒトは、文明を持たなかった時代の頃から海、砂漠や山、寒冷地を渡り、世界の反対側や絶海の孤島まで到達しています。何が彼らをそうさせたのでしょうか?ヒトは「旅をするようにプログラムされている」からです。

現代に生きる人類は、知識の量は増えましたが、生き物としての本能は石器時代の頃とそれほど変わっていないと言われています。つまり、僕らも「旅をするように出来ている」のです。

僕が強く影響を受けている人物で、橘玲さんという作家がいます。その人も旅行(とサッカー観戦)を趣味としています。そして、こんなことを書いていました。

「ぼくが旅をする理由は、想像力が足りないからだ」 (『80's エイティーズ ある80年代の物語』  太田出版)


僕も同じく、自分のことを想像力が乏しい方だと感じています。なので、実際に旅に出る、自分で経験したことしか自分の頭に取り込めません。日常生活に埋没していると、頭のデータベースがなかなか増えていきません。そして、新しい発想というものは自分の元々の知識からしか出てこないものです。

例えば最近だと、アジアカップの観戦のためにUAEに行きました。決勝戦の行われたアブダビのスタジアム名が「ザイード・スポーツシティ」だったのですが、それ以外にも街中にザイードをイメージさせるものを色々と見つけました。

そこで初めて、シェイク・ザイードというのはUAEの初代大統領であることや、石油の発掘を手掛けて国の発展に寄与したことなどを知りました。現在の大統領は2代目で、そもそもアラブ首長国連邦の独立が1971年とかなり近年であることも、恥ずかしながら先週初めて意識したような気がします。学校では習ったのでしょうが、自分の血肉となる知識ではなかったです。


物事について、ただ話として聞くのと、実際にその景色や周辺の状況に触れるとのでは、得られる情報量に大きな違いがあります。また、見知らぬ世界や出来事との接触は、自分の中の「当たり前」を壊して新しい自分を作ってくれるもので、クリエイティブであるためには時々補給が必要なビタミンのようなものだと思います。現代は知識社会であるため、クリエイティブであることは幸福や豊かさのために必要性が高いです。

クリエイティブのためには、そこまで大げさな旅でなくてもよいかもしれません。決まった学校や職場に通うなど日常の繰り返しに飽きてしまった時に、例えばいつもの帰り道と一つ違う角を曲がってみる。そんなちょっとした変化でも、退屈な日常に活力の息吹を吹き込んでくれるのでやってみてほしいですが、いずれにせよヒトは新しい風景や経験を求めるように出来ているのです。


・人は遊ぶ動物、そしてサッカーは高度な遊びである

次にサッカーについて。

とはいえ、こちらは僕にとってはたまたまサッカーだったというだけで、「人間にはサッカーが絶対に必要だ!」というような話ではありません

「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」という概念があります。オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガが1938年ごろに提唱したそうですが、人間活動の本質は文明や文化を築くことよりも、遊びであるということです。ヒトは「遊ぶようにプログラムされている」ということですね。

動物の行動を見ると、例えばチンパンジーなどは幼い時は様々な遊びに興味を示すのですが成長とともにそうした特徴は消えていくそうです。でも、人間は大人になっても「遊んでいる」個体が多いですよね。何となく実感はわくと思います。


では遊びとは何でしょう。

ホイジンガは遊びについて、次のような5つの形式的特徴を持つと説明しています。

1. 自由な行為である
2. 虚構の世界である
3. 場所的時間的限定性を持つ
4. 秩序を創造する
5. 秘密、仮装をもって通常の世界と区別される

「うわ、まさにサッカーだ!」と、当時の僕は苦笑しました。

サッカー(観戦)は別に仕事でも何でもなく、生存に必要なものではない、自由な行為です。政治や経済とも違って、サッカーの試合結果は虚構の世界といえます。試合を見に行くには決まった場所・時間に行く必要があり、限定性を持っています。虚構とはいうものの、試合はルールに従って行われ、大会にも昇降格などのレギュレーションがあり秩序があります。サポーターには暗黙のルールがあったり、鎧兜を着たりカエルの格好をしたりなど、秘密や仮装をなぜか好みます。

(サッカー界の秩序の一例)


大人になると、なかなか素直に遊べなくなります。そんな中、サッカー観戦はゲームの中のワンプレーから、勝敗によってクラブワールドカップの頂点までが一つの世界でつながっています。この世界観は非常に高度な遊びで、僕は長年離れられないでいます。


・人は仲間がいないと幸せになれない

最後に一番大事な、仲間について。

ヒトは社会的な動物で、「俺たち」と「奴ら」を区別して生きていかないと落ち着かないようにプログラムされています。群れたがる集団が生存競争上有利で、その中で「仲間」「敵」に鈍感な個体が淘汰されていった結果、現代の人間である僕たちの社会性が残りました。

このように敵味方を区別したがるヒトの性質は、差別や戦争にも結び付いてしまうことはあります。しかしそのような本性を持っている我々なので、「俺たち」にバッチリはまった共同体に参加しているときの心地よさはこれ以上ないものがあります。周囲に迷惑をかけず自分のためになるのであれば、「仲間」はぜひ求めていくべきでしょう。そしてサッカーは競技の特性上、味方と敵によって成り立ちます。サッカーで「殴り合う」ことは、平和(?)に行えれば「仲間」とともに幸福を達成する一つの方法であると思います。

僕の人生におけるハイライトの一つは、2007年にベトナムで行われたアジアカップの準々決勝、オーストラリア戦を観戦に行ったことでした。大会の背景としては、その前年の2006年にドイツワールドカップでジーコジャパンが無様な敗退を喫していました。オシム監督が日本代表の立て直しを期待され翌年のアジアカップに臨み、準々決勝で因縁のオーストラリアと対戦することになったという状況でした。

その2007年アジアカップが、僕にとって初めての海外サッカー観戦でした。当時は仲間がいなかったので完全に一人での行動で、慣れない海外で言葉も通じず、真夏のベトナムは高温多湿で不快な気候で、タクシーに乗ると毎回運転手にニヤニヤされながらぼったくられるなど、周りの全てが敵!というような環境でした。心が折れそうになりながらもどうにかチケットを手に入れ(10倍ぐらいの金額で買わされた)、オーストラリア人に煽られたり煽ったりしながらスタジアムにたどり着き、ゲートをくぐり、見慣れた青い服の集団を発見した時の高揚感は、今でも鮮明に思い出せます。

「仲間がいる!」

試合展開としてはオーストラリアに先制されたが日本が追いつき、1-1で120分が終了しPK戦で日本が勝利しました。ワールドカップでの絶望が深かった分リバウンドの歓喜も非常に大きいものがありました。

特に個人的には、ベトナムという環境に打ちのめされ、その分日本人という「仲間」を意識し、結果オーストラリアという「敵」と戦い勝利したというシチュエーションがすごく自分の遺伝子に跳ねるものがあったのでしょう。試合後に、

「勝ったぜー!ざまーみろ!!」

と奇声を上げながら誰かから借りた日の丸マントを振りかざしドンスアン市場を行進した時間は、自分にとっての人生のハイライトだったなと心から思います。仲間と一緒に、社会の規範を踏み外す、しかもその行為に自分なりの正当性がある。こんなにゾクゾクすることはありません!暴走族とかやってしまう人の気持ちがわかる……。


おっと、うっかり話が逸れました。ヒトは社会的な動物という本性があり、それゆえに仲間は必要だという話です。

僕は長年、サッカーを見る旅を仲間と続けてきました。自分でもなぜそんなことをしているのか分からずにやっていたのですが、結局、「自分とは、ヒトとは、そういう風に出来ている」からなのかな、と思うようになりました。自分が生得的に求めている幸福、快感といった類のものがあり、それが僕にとっては旅やサッカー、仲間だったのでしょう。

そしてこれまで述べてきたように、それらは僕にとってだけでなく人類全般にとって、ある程度普遍的な幸福、快感なのではないのかな、と思っています。このことを世界に広めたい、そして自分も新たな世界を知りたい、新たな仲間を得たい。そういった想いで、今回のプロジェクトに参加させていただくことになりました。

具体的には、サッカーの旅を通して旅行先で感じたような、人間や社会の本質をなぞるような経験を書いて行ければと思っています。また細かな旅のノウハウやグルメ情報、成功談や失敗談などもいろいろ出てくると思います。一昨日までUAEに行っていたのでまずはそれですかね。よろしくお願いいたします。


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この先は有料記事となります。本文の趣旨とはあまり関係のない、おまけのような内容です。

今回は、「精神と時の部屋」のアルバイト代が具体的にどのぐらいだったのか金額などを書いてみることにします。毎回、お金の話ばかりしてるな俺は……。さすが会計係。

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