『世界中の隣人よ』と『離れていても』~それぞれのグループとそれぞれの立ち位置~

6月22日、AKB48の新曲、『離れていても』がYouTubeの公式チャンネルにて公開された。

この公開の約一月前の5月25日、乃木坂46の新曲、『世界中の隣人よ』がYouTubeの公式チャンネルで公開されていた。

それぞれのタイミングの違い、MVの違い、歌詞の違いから見えるコンセプトの違いなんかを少し比較しながら考えてみようと思う。

制作タイミング

まずは、作られたタイミング。先行して発表された乃木坂の『世界中の隣人よ』は、緊急事態宣言の最中に制作されている。そのため、メンバーは全員完全に自宅での撮影。映される街の映像も、ほとんど人がいない言ってみれば"眠った"状態でのものになっている。

歌詞にもその辺は表されていて、最初から“夜はいつだって明ける”や“星がやがて消えていくまで”という風に、朝ではない状態が表現されている。

続いて、AKB の『離れていても』は、緊急事態宣言は解除され、様々な制約はあるものの、少しずつ街が元の状態を取り戻してきている状態での制作となっている。そのため、映るメンバーも全員が家にいるわけではなく、買い物をしたり、食事に出かけていたり、公演のレッスンをしていたりと、現在のリアルな状況が映し出されている。

歌詞には“ねぇ俯いてたら日差しが出ても気づかないよ”と表現されている通り、こちらは日が昇っている時間帯であることがわかる。

距離感

ここからは、それぞれの表現の違いについて少しずつ見ていきたい。

乃木坂の『世界中の隣人よ』では、“大切な誰かと今を生きよう”と表現されているのに対して、AKBの『離れていても』では、“少しだけ離れて歩いて行けたらいい”と表現されている。

『世界中の隣人よ』は、“誰か”という不特定多数の人に呼び掛けているのに対し、『離れていても』は一緒に歩いている身近にいる存在であるような表現だ。

ここに大きな違いがあるように思える。

その他にも、『世界中の隣人よ』は“壁の向こう側”という表現がある一方で、『離れていても』では“後ろで見守ってるから”とある。これは明らかに距離感が違う。

AKBはそのコンセプトから、会いに行けるアイドルといっているように、身近な存在であろうとしている。スタートも劇場公演からだった。乃木坂のほうはというと、スタートはテレビのバラエティー。やはり、アイドルとして“隣人”としての身近さもある一方である程度の距離感のある存在なのだと思う。

そのところは、MVでも表現されているように思う。『世界中の隣人よ』で印象的な、神宮球場、紫のペンライトで埋め尽くされた状態から、現在の誰もいない映像が入り込むシーン。その中で、画面にメンバーたちが歌う映像が差し込まれている。これは、大きな会場と画面の中という部分が際立つ表現だ。

それに対し、『離れていても』では、活動の様子が表れている映像のメインは、劇場公演だ。劇場というのは、会いに行ける場所としての出発点であり、AKBの居場所。それがよくわかる。

また、注目したいのは、『世界中の隣人よ』の一人称。“僕ら”という言葉と“私”という言葉が使われている。こういった二つの一人称が表現されることで、その表現されている枠の広さが感じられる。

そのほかの表現でも、やはり、『世界中の隣人よ』では、“会ったことない誰かのため”という歌詞があるけれど、『離れていても』はタイトルは“離れて”と表現されているものの、“瞳を閉じれば君が見える”し、”会える日まで”といっているように身近ないつかまた会える存在であることが強調されているように思う。

終わりに

このように、表現されている距離感から、見えるものが違ってくる。どちらも、それぞれのグループの存在を象徴しているように思えるから、どちらもその時に公開されることに意味があるものであり、逆だったら成立しないものだったようにも思う。


それぞれの良さを感じながら、それぞれの曲を聴き、MVを見たいと思う。

おまけ

これを書き上げる前に歌詞についてツイートしたものも貼り付けておく。

上のと合わせて読んでみるといいかも。


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