推しとは推すとはオタクとは

Twitterから凍結の連続という仕打ちを受け、なかなか頭の中にあるものを吐き出せないまま日々を過ごしているせいで、まとまらない想いみたいなものを抱えている最近。

少し落ち着いて自分の「推し」や「推す」という概念とそこから繋がる「オタク」というものについて考えを巡らせている(要するに暇)

私はAKBにこうしてハマる前までは「オタク」だと名乗ることはなかった。
人よりも好きなものはある。けれど、「オタク」とは名乗れなかった。
「好き」というのとも「ファン」というのとも違う。
「オタク」というのは、一つの称号だ。
「オタク」と名乗るためには、少なくともある程度以上に想いを傾けている必要性があると個人的には思っている。

私がなぜオタクと名乗れないかというと、その「ある程度以上に想いを傾けている」かどうかに自信がないから。
この自信というものは厄介で、他人から「お前はあれについてのオタクだ」と言われてもピンとこない。
何かに関する知識だったらもっと詳しい人がいると思うし、マンガやアニメやゲームだったら自分なんかよりもよほど時間をかけて楽しんでいたり好きだったりする人がいるだろうと思う。

そんなわけで、私はその「オタクと名乗る自信」みたいなものを手にできないままここまで生きてきた。

ただ、ここ数年「AKBのオタク」という称号を名乗ることは出来ている。

これは、なぜかと言えば、「推し」がいるからに他ならない。

特定の「推し」がいない時期にも私はAKBの出ているテレビはある程度見ていた。AKBINGOは毎週見ていたし、マジすか学園だって毎週ではないけれどチェックはしていたし、当時はいくつかレギュラー番組があって、それも暇な時は見ていたように思う。
ただ、でも、「オタク」とは名乗っていなかった。
まぁ好きぐらいの感じ。

じゃあ、いつから「AKBのオタク」というふうに名乗ることが出来るようになったかを考えると、やはりそれは自分の中で揺るぎのない「推し」が出来たときであるように思う。

ここで細かい流れは書かないけれど、色々な経験を経て一人の推しメンを推していると思えるときがきたときに、私は自信を持って「AKBのオタク」を名乗れるようになった。

あらゆることに自信のない私が自信を持てることの一つに、「推しメンを好きでいること」がある。

その自信を与えてくれている恩返しが「推す」ということだし、それがすなわち「オタク」であることに繋がってきている。

自信をくれてありがとう。入山杏奈さん。

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