村上春樹風マンション訪問記 ブランズタワー豊洲

「完璧なタワーマンションなんて存在しない。完璧なマンション評論家が存在しないようにね」
モデルルームを出ると僕は思わずつぶやいた。
「あるいは、そうかもしれない。」
妻は少し哀しそうな表情でそう続けた。

正直僕らは期待しすぎていたのかもしれない。豊洲駅周辺でここまで周りが開けたマンション用地はここが最後だ。豊洲の開発を進めてきたM不動産に、相場よりもかなり高い値段で競り勝ったという噂を耳にした。

モデルルームではどんな会話をしたのか覚えていない。僕はただ100平米を超えるダイレクトウィンドウの角部屋のモデルルームで呆然と立ち尽くしていた。目の前に高く、硬い柱がある。ダイレクトウィンドウの視界を遮る天井高210cmの下り天井がある。
「システムなんだよ」僕は言った。
不思議そうに顔を傾け妻が僕を見る。
「システムなんだ」僕はもう一度言った。「柱と梁で空間を作り出す。僕らはそのシステムが作り出す空間で食事をして、風呂に入って、セックスする。」
「おかしな人」妻はそう言うと、またキッチンの引き出しを開けたり閉めたりして、使い心地を確かめ始めた。

かつての造船の街、戦後の復興を支える港として発展した街。今では子供達が無邪気に公園で走り回る、ファミリーの街に変貌した。モデルルームから駅まで向かう道で僕は言った。
「ローン審査が通ったら考えてみよう。君も働き続けたらいい。最近はベビーシッターサービスも充実してるらしいから。」
「そうね」妻は通り過ぎるゆりかもめを見上げながら答えた。

その夜僕たちは久しぶりにセックスした。静かな、短いセックスだった。シャワーを浴びてまたベッドに横たわり、天井を見上げながら、友人から聞いたある話を思い出した。

「そういえばモデルルームの写真を撮っておいて、仕様が違うと後から改修を要請する人がいるらしいよ。」僕は言った。
「あら、それって当たり前じゃない?」
「でもね、結局全戸改修することになって、そのデベロッパーは倒産したらしいんだ」
すると堰を切ったように妻が笑いだした。
「可笑しい、何かの寓話かしら」
「でも、倒産しちゃったんだぜ」
「そうね。そのデベロッパー、少し可愛そう」少し反省したように妻はつぶやいた。

「やれやれ」僕はそう言いながらキッチンに行き冷蔵庫からビールを出して飲んだ。
「僕だったらどうしただろう。どんなマンションだったら世界中の人が笑顔になり、戦争が終わり、アマゾンの火災が鎮火するだろう」誰にも聞こえない独り言を言いながらビールを飲み干した。

「ピース」倒産したデベロッパーの声が聞こえた。

※この話はフィクションです

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