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人を見た目で評価する7つの愚かさ 〜ルッキズム卒業宣言〜

突然ですが、あなたは自分を「日本で何位の人間」だと思いますか?

そんな事言うと、おそらくこう言われます。

それって生産力で? 見た目で? 若さは関係ある? 希少性は? 賢さは? 血統は?
・・なんていう「何を基準に順位をつけるのか?」という話になるでしょう。 

そこは自分の判断で、と言うと、その人が「何を基準に自分や他者を測っているのか」という事がわかります。

それで何だかんだ議論した後に、必ず「人間の価値に順位なんか付けられないよね」という当たり前の結論でみんなが同意します。

ところが現実社会は、生まれた瞬間から何かしろの順位がつけられ、これが死ぬまで続きます。
繊細な思春期に意味のないレースに出されて、頼んでもいない「順位」を付けられるのです。

「足の速さ」「学校の成績」「身長、体重、目の大きさ、鼻の高さ」「家族の収入」とか、そんな下らない事でいちいち順位が付けられ、自分は2軍か?3軍か?なんて。

「スクールカースト」なんて言葉が使われる遥か昔から、世間てのは「こんな」だったのです。

なので、みんな理屈では「人の価値に順位はつけられない」と言いつつ「常に順位」の世の中でうんざりしてたわけです。

何度も言ってますけど、そんなダブルスタンダードの偽善的な物言いが嫌になった人の中から「ぶっちゃけ」が現れたわけです。

「ぶっちゃけ見た目でしょ」

という「本音主義」が流行って久しい。
「みんなちがってみんないい」とか言っても、結局は見た目やら収入やら、学歴なんかで人を見ているじゃん。結局は見た目と金じゃん」
みたいなやつだ。
昔の人はそんな事はわかってて、それでも人は見た目じゃないよ、なんて言ってたけど、そんなの偽善だと言うわけです。
そんな幼児的な主張をありがたがってるのは、明らかに「知性の劣化」だと思うが、そんな考えが主流になってるのも事実。

ところがこの「ぶっちゃけスタイル」という生き方は、とにかく損をする。

僕はこの件に関して何度も語ったり書いたりしてるのだけど、ヤンサンファミリーには幸せになってもらいたいので、新年最初のメルマガはこの話にします。

1つ補足しておきたいのは、見た目がいい事が悪であるという話ではないのです。

「見た目」も人の魅力の1つです。それを踏まえた上で進めます。


人を見た目で評価して、安直にそれを口にしてるとどうなるか?

何について損をするのか?

その理由を簡単に説明してみましょう。

〈人の「見た目」を評価する人はどうなるか?〉

1 ほぼ確実に相手を傷つける

言ってる本人は「他愛ないこと」と思っていても、その言葉のダメージは本人にしかわからない。「言われてもいつも笑ってる」とか「いじられて喜んでる」なんて言っても、本当の事は「その人」にしかわからないのだ。

褒めてるつもりで「細いねえ」なんて言っても、本人は痩せている事に傷ついてきたかもしれないのだ。
特に確かな信頼関係が出来てない時期は注意するべきだろう。

褒めたければ「靴」でも「服」でも「読書のセンス」でもいいんで、身体的な部分は避けた方がいい。

2 浅い人間に見える

アイドルの握手会なんかで、僅かな時間で自分の評価を上げたいと思って、相手を褒めようとする人がいる。
悪くはないんだけど、こういう時にこそ「見た目」を褒めるのは意味がない。
可愛い人は「可愛い」なんて死ぬほど言われているのだ。
それでも嬉しいとは思うけど、褒めるならブログでもインスタのセンスでも褒めた方がいい。

確かに「凄い美人」なんかに会ってしまうと、つい「美人ですね」と言ってしまいたくなる気持ちはわかる。
でも「見たまま」を口にして生きている人は「浅い人間」に見えませんか?

美味しい料理をごちそうしてもらった時なんかは、素直に「旨いー!」って言っていいし、面白いコンテンツを観て「超面白い!」と言うのもいいと思う。

でも、太ってる人に「太ってますね」と言う人は、バカにしか見えない。

3 評価型人間として避けられる

最近マクガイヤーチャンネルのしまさんがSNSで「前より綺麗になりましたよね?」と言われたら、その人が評価型の人間だと思って怖くなる、みたいな事をつぶやいていた。

さすがしまさん。僕もずっと同じ事を感じていたので深く共感してしまった。

「前よりも綺麗」と見ているということは、「前」はどう見ていたのか?
この人は常に人を評価しているのだ・・・多くはその見た目を・・・てことになる。
もちろん人間は他者を評価してしまう生き物なので「あいつは自分より下」だとか「あいつには負けた」とか思うのも仕方ない。

問題はその「評価主義」が行き過ぎてギラついている人だ。

「私はそんな風に人を評価してませんよ」なんて言っても、そんなものはバレてる。
その人にコンプレックスがあるからだろうが、勝手な物差しで、勝手に格付けされるのは気分が悪い。
人は「審査員」に心は開かない。

なので、審査員をやってる人は孤独になるのだ。

4 想像力、共感力がない事を露呈

見た目を評価されても別に平気、という人もいるだろう。
むしろそれがないと張り合いがない。なんて思っている人もいると思う。
「何でも言い合える関係こそが重要で、遠慮した関係なんか嘘の関係じゃない?」なんて人もいる。
「最近の世の中は、そういう事を気にしすぎてる」「昔はもっと言いたいことが言えたのに」なんて言う人もいる。

確かに政権批判や、体制批判なんかに関しては、言いたいことが言える空気でなければならないが、人の見た目や属性を無邪気に非難して笑ってもいい、なんてのは話が違う。

闇雲な評価主義には、必ず「当事者が我慢していた歴史」がある。
「何でも口にしていい」と思っている人は、その事で傷つく人の事を想像できない人だろう。

「そんな他人の事を考えてる余裕がない」というのが本音なら、その時は黙ってるか、当事者のいない所で言えばいいだろう。

5 可能性を放棄してしまう

最悪なのは「俺はこれでいいと思ってる」という人だ。
「デリカシーのない嫌われる」と言われようが、「それでもいい」と言ってくれる人間もいるからいいのだ。みたいな開き直りは「不幸になる種類の開き直り」だろう。
デリカシーのない同族と、その取り巻きだけの「蛸壺」で生きていくのは、人生のあらゆる可能性を放棄してしまう事になる。
自分が評価して傷つけた人は自分から去っていくので、そこから派生する未来はなくなるからだ。

「評価に勝ったものだけの世界で十分」と言う人もいるだろうけど、その価値観の世界では大抵醜い足の引っ張り合いをしている。

6 ブーメランに苦しむ。

これは言わずもがな。
人を見た目で評価する人は、自分自身も厳しい評価にさらされるわけだ。
そこと闘って無理をするのにも限界はある。
何より厳しい「自分自身への評価」に苦しみ続ける。
「若い事が一番」なんて評価軸で生きるのは地獄でしかない。老いない人はいないのだ。

7 「挑戦ができない世界」を作ってしまう

「それでも自分は見た目を1番に考えて生きる」という人は、それでいいと思う。

ただ「自分が完璧な見た目でないと何も始められない」となると問題だ。
人がどう思おうが、人生は過ぎていくのだ。

「人がどう言おうが、自分は最高」と思っていいのだ。
その設定でなら色々な挑戦ができるのだ。

「若くないから」とか「美形じゃないから」とか言って遠慮する必要はない。

その昔、僕はヤンサンファミリーに「お前には才能がある」と、根拠もなく言ったけど、そもそも根拠なんてものは「世間」なんかに決めさせたらいかんのだ。

ましてや、デリカシーも想像力もない見た目主義の「あいつら」なんかに決めさせてはいけない。

自分の価値を決めるのは自分だ。
そしてそれは「見た目」なんていう表面的なもので決まるものではない。

 山田玲司のヤングサンデー メルマガ 1月7日


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