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言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(十七)丸山健二

 この数年、蝶が集まる庭にしたい一心から、ブッドレアの種類と数を集めています。
 噂では聞いていましたが、確かにその効果には絶大なるものがあります。人の鼻に感知される香りとしてはバラに遠く及びませんが、しかし蝶にとっては引き寄せられずにはいられない匂いであるらしく、日が落ちる直前まで絢爛たる乱舞を披露します。
 この地へ移り住んだ半世紀ほど前には、庭とはとても呼べない殺風景な空間にすぎなかったにもかかわらず、あらゆる蝶がごっそり集まってきていたものです。また、夏の夜ともなると、蛍が飛び交い、ミヤマクワガタや薄緑色の羽を具えた大型の美しい蛾などが灯に群がる光景がごく普通に展開していました。
 当時は、さまざまなトンボがそこかしこで無数の渦を作り、ツバメやスズメの数も夥しく、ジョロウグモが張り巡らす巣が夕日に映えて金色に輝き、オナガが垣根を子育ての場として活用しており、動物好きの妻もまだ若く、都会育ちにもかかわらず溌剌と田舎暮らしを楽しんでいました。
 昔を懐かしんでみたところでどうにもなりません。そんなことは重々承知しています。時間の恐ろしさには凄まじいものがあるのです。
 時は流れ、さらに流れて、その間、世界も私たちもさまざまなものを喪失してゆきました。だからといって嘆くつもりはありません。ただ、「時代も世代も好ましい方向へは進んでいないんだな」という切ない思いがどんどん募ってゆくばかりです。
 悟ったような言い方を気取れば、人は皆こうした観想に至って生涯の幕を閉じてゆく悲劇的な生き物なのでしょう。
 そして今、ブッドレアに魅せられてどこからともなく湧いてきた美し過ぎる蝶たちが、澄みきった瞬間を発生させて、至純至高の庭を錯覚させてくれます。
 そのせいかどうかは定かでありませんが、性格の宿命的な汚点が原因に違いない精神上の危機が少しばかり遠のいたように思えます。いいことには違いありませんので、素直に喜んでいます。
 残念なのは、このブッドレアが自然体系を破壊しかねない外来種に指定されていることです。ボランティアの活動の一環として、国立公園を浸食するこの生命力旺盛な植物が発見され次第引き抜かれています。なんとも複雑な気持ちです。
 
 
「この世は苦悩と情熱にあふれているんだよ」とクロアゲハが言いました。
 
「現代は行き詰まって途方に暮れているのさ」とルリシジミが言いました。

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