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【LIPHLICH】最後のAREA公演ライブレポート/20211209

2021年の12月31日で高田馬場にあるライブハウスAREAが営業を終了する。

このニュースが流れ、Twitterでバンギャ界隈がざわついたのはもう一年くらい前になると思う。
私も例にもれず、数えきれないほど足を運んだ場所が失われることについて、どう受け止めたらいいのかわからず動揺した。
この場所を知ったのも、足を運んだのもLIPHLICHを見るためだった。
彼らにとっても歴史を刻んできた場所であるAREAで、最後のワンマンが行われるという。

正直言うと、私はここ2年ほど、彼らのライブから足が遠のいていた。
ベースのメンバーが入れ替わり、信頼できる人が加入してくれたということを見届けて、安心したというのもあったかもしれない。
お披露目のライブで音響が悪く、耳が痛く具合が悪くなって「新しい彼らの音とは合わないかもしれない」という印象を受けたのもある。

バンドはバンドでなんだか大変そうな事情を抱えていたことを、先日ボーカルの久我さんがブログで珍しく事情を明かしていた。弱みを見せるような内情を明かすことなんて、私が見守っていた頃には、信じられなかった出来事だった。

時間は流れ、人もバンドも姿を変えていくものだ。
私は正直な話、友人からの話で近況を聞いているだけで、彼らの現状を全くと言っていいほど知らない。

「今のLIPHLICH、どうなってるんだろう。見てみようかな、AREA最後だし」
そう思って、私は2年ぶりに彼らのライブに足を運ぶことにした。

客電が落ち、スモークが焚かれ、空間に緊張感が走る。

SEは数字を読み上げるもの、ピアノ曲、7 die deoなど。数秒ごとに切り替わり、テレビのチャンネルをザッピングしているように、様々な情景が切り替わっていく。
暫くその様を、息を飲んで見守っているうちに気付く。これらの音に全て憶えがあることを。このAREAというライブハウスでLIPHLICHを見た過去のライブで、目にしたSEたちだと思い至る。

今までに何回、彼らをこの場所で見守っただろう。私はまじめなファンではなかったから、過去2年はまるまる足を運んでいなかったけれど、それでもこのAREAという場所は、私の人生で一番足を運んだライブハウスだ。
初めて足を踏み入れたのも、LIPHLICHを見るためだった。それももう10年近く前の話になる。
彼らを知ってから、私の人生は大きく変わった。
彼らの存在を信頼し、見守り(時にしんどくなって離れながら)、私はここ最近10年の時間を過ごしてきたことを思い出す。

当時見て、耳にしていたSEたちを同じ場所で見ると、記憶がフラッシュバックするような気がした。
バンド本人にとっても、私以外のお客さんにとっても、それは等しく同じことなのではないかと思う。
何を見て、どんな時間を経験して、何を思って、この場所を後にしたか。
夢中になれたか、なれなかったか。何に目を奪われたか。
今はもう忘れてしまった多くの人の多くの記憶が、この場所には沈殿していると感じる。

映画のように開演のブザーが鳴る。
そうか。そうだった。
彼らの曲は、それぞれ一曲ずつが短編映画のような情景を写すものだった。

1曲目は「KNOCK BLACK DOG JOKE」
初期のアルバム「LOST ICON‘S PRICE」に含まれる、私がライブに通っていた頃よく演っていた耳というか身体に染み込んでいる曲だ。

メンバーの姿も久しぶりに見る。
懐かしさを覚えるラメのガウンを着た久我さん。
こういうグラマラスで気障な服装が、身長のある立ち姿の久我さんには本当によく似合う。

他のメンバーも冷静さを以て、慎重に演奏を続けている。上手いな、と思った。
赤だけの光に照らされて中央に立つ久我さんは、絶対的な存在感があり、この場を統べる人物として説得力があった。
素直に「格好いいな」と目を奪われる。初めてLIPHLICHを見た時の驚きを思い出す。
重厚な低音。耳栓をしていてちょうどいいと感じる。
以前は耳栓なしでAREAの下手スピーカー前に立ち、彼らの音を浴びるが好きだったけれど、突発難聴と聴覚過敏を経験して耳が弱くなってからはそんなことは怖くてできなくなってしまった。

指引きをするベースの手元に目が行く。この運指には見覚えがある。
不思議なことではない。私はベースの前に立って、何十回もこの曲が演奏されるのを見てきたんだから、既視感があるのは普通のことだ、と思い直す。
先述の通り、数年前に私が見ていたベースのメンバーは脱退し、現在ベースを担当するのは竹田さんというメンバーである。
前任の人と同じ曲をやる以上、比較してしまうのは避けられないことなのかもしれない。
しかし、この日、竹田さんのベースを私は信頼できると感じた。
それに伴うように、「またライブに足を運んでも大丈夫だ」という安堵も覚えた。

2曲目。ドラムが立ち上がり客席を煽る。
「It‘s good day to anger」だ。同じくLOST ICON’S PRICEに含まれる初期の曲で、客席が怒りに飲まれたようにヘドバンの海になる。
懐かしさを覚える。音につられて、頭を振り回したくなる衝動に駆られる。が耐える。
今日は、理性や記憶を失ってしまうことよりも、ちゃんと見届けることを優先しようと思っていたからだ。
久しぶりに見るLIPHLICHの姿を、ちゃんと確かめたかったからだ。

この曲のイントロ音だけで、客席のテンションがバカ上がりするのも懐かしい。
曲の展開に耳、というか意識を傾けていると、フロントマンの久我さんが歌うことで、躊躇や迷いをほどいて曲に没入させてくれると感じる。もちろん演奏や音の説得力もあるだろう。
客席のひとりひとりの頭の中の雑念を、全て消し飛びさせるほどの力で、空間が支配されるということ。
それに甘んじて、ひとりひとりの客が船から海原に飛び降りるように会場は様相を変える。
彼らの説得力のある呼び水に甘えて、理性をかなぐり捨てるのは、甘美な誘惑だ。その瞬間のためにライブに足を運ぶ価値があると言ってしまってもいいくらいに。

間奏からAメロに変わる時、会場の中の空気が止まった。
「Count down Tick Tack」と秒針を模した久我さんの指の動きが空間全体を支配する。

3曲目は「発明家A」

謎かけのような導入。その言葉に意識が全部持っていかれる。謎めいた緑のライト。
空気が変わる。うねるようなイントロギター。
可能な限り前に手を差し出して、大きく叩く客席。
音とライティングの重なりの精度が高い。音の描く情景に、即時即時でライトが色を足している。
これが見られるのはAREAというライブハウスでLIPHLICHを見る醍醐味の一つといってもいいかもしれない、と最後の公演でやっと気づく。

この曲がリリースされた2016年当時は、この象徴的なギターが尖っていて苦手だったけれど、ずいぶん角が取れたと感じる。
客席の一体感は、曲の理解を示す愛情表現だ。
総じて客席のジャンプの打点が高い。床が揺れることで、自分自身もこの空間の一部であることを実感する。

雷鳴のような音に明滅する光。
「ようこそおいでくださいました」と挨拶する久我さん。
「泣いても笑っても、AREA最後のワンマンです。
 今日めちゃくちゃたっぷりやるから、覚悟しといてね」

再び雷鳴。
4曲目は「マズロウマンション」

私が熱心に彼らを見守っていた時期の象徴的な曲だ。
久しぶりに聴く耳慣れた曲は、重厚さと情景描写の説得力が増している気がした。
杖を振り回す久我さん。
この曲は、マズロウマンションという奇妙で閉鎖的な空間を描く物語だけれど、この日聴いた演奏は、「マズロウマンション」はひとつの安寧な理想郷の形なのかもしれないなと思わせるものだった。
そんなことを思い至ったのは初めてで驚いた。頼まれても近づきたくないような、ホラー映画の舞台のような印象だった場所は、内側から見ると永遠に続いてほしいと思う場所になるものなんだろうか。

ドラムとベースがいい仕事をしている。ボーカルの邪魔をしないと誓いを立てているかのような。
地響きみたいなバスドラ。それに反するドラムの小林さんの冷静さ。
紫、ピンクのライト。
雷鳴に伴う稲光のような白いライト。
暴走しなくなったギター。
歌の最後のフレーズ「人間をやめること」という言葉に意識を引かれ、中央に立つ久我さんを見ると、彼はマイクスタンドを置きながら、客席に向けて静かなほほえみを浮かべた。

5曲目は「不条理、痛快、蛇の歌意」

一気に祭りみたいな空気に飲み込まれる空間。
サビで客席が飛び跳ねる。一瞬ごとに記憶が飛ぶ。
紫と緑のライト。
サビが来るたびに意識が飲み込まれるのを感じる。
「ど、ど、どちらにしても無理なもんは無理~~~~!」
象徴的なこのフレーズに思わず笑ってしまう。説得力。場の支配。

余談だがこの曲がリリースされた頃、私は少人数の女子の職場で苛めを受けていた。
息をするだけ、トイレに行くために席を立つだけで舌打ちをされる環境で、向こう何年過ごしていくんだと生きていくこと自体絶望しかけていたのだが、「昼食を買いに行く」という名目でなんとか確保する20分ほどの休憩に、私はイヤホンでこの曲を毎日繰り返し聴いていた。
「ど、ど、どちらにしても、無理なもんは無理」
今は笑って聴けるこのフレーズだが、当時は、このフレーズで正気を保とうとしていたことを思い出す。

「楽しんで。序盤からクライマックスだ」と久我さんが言い始まったのは
6曲目の「Manic Pixie」。

LIPHLICHの代表曲と言っていいだろう一曲。
もうライブで何回聴いた曲かわからない。予定調和と言えばそうなのかもしれない。
夢中に飲み込まれる経験と、経験から来る期待と、それに応える演奏と没入。

デスボイスで煽るベース。これは私にとっては新鮮だった。
私の見ていた頃は、デスボイスというものがライブの中に存在しなかったから。
新鮮で、似合っていて、力強く信頼できて、とても良かった。
客席の理性が前奏の地点で吹き飛ぶ。
赤と青のライト。
1秒先のことも、現在のことも、全部わからない。それでいい。
客席を塗りつぶすヘドバンの波を見渡して、久我さんは微笑んだ。
ドラムソロもいい。ギターソロもいい。
そこから全体の注目をかっさらう久我さん。
肩にマイクスタンドを背負って歌い、「いらっしゃいませ、よく来てくれたね」と改めて客席に言う。すごく素直な顔で、汗を飛ばして笑顔だ、と思った。

一気に静かになるステージ。青いライト。
「2012年12月にこの曲からLIPHLICHは始まりました」
の説明から続く7曲目は「VESSEL」。

ギターと声だけでメインフレーズを歌い上げる。

いつか満ちるまで

同期された聞きなれた音源の音が古く聞こえる。
ドラム、ベースが加わると同時に、曲に立体感が加わる。
ライトが点き、彼らの現在の姿、をステージの上に見せる。
口を噛みしめて叩くドラム。ベースがいい仕事してる。
青ライトとスモーク。

時の流れとともにひとつひとつ増えていった洞穴
埋めるのは時じゃなく理想の中の不純物かもしれない

ドラムが入るたびに立体感が増す。
掲げられた手に自然な拍手が沸いた。

8曲目は「GREAT NONSENSE」

「飛べ」という声に応える客席。入り乱れるライト。黄色、ピンク、青、白。
演奏と歌を見ていると、絵本を読み聞かせられているような気持ちになる。

ある日ドブネズミが美しくなることもある
問題は自分がそのドブネズミかってことさ

微笑みを浮かべて、客席を見渡し、口ずさみながらベースを弾く姿は「兄」みたいだと思った。
久我さんはジェスチャーが多い。
ギターソロには白いスポットライト。

唯一のシャングリラ、君のシャングリラ

久我さんを見て、興行師らしい振舞いだなあ、と思ったことを憶えている。

雷鳴と雨音に導かれて始まったのは9曲目「航海の詩」
闇と青さ。静けさ。第一音としてのシンバル。ドラムの効果にハッとする。
暗闇の中、誰も動かないAメロ。微動だにしない客席。
サビでベースが入って重厚さと同時に現実感を加える。
「これは僕たちの」で久我さんに白いピンスポット。
一気に明るくなって全体が見えるようになる。
ギターが抑えられていて、とても良かった。
演奏の後、うやうやしいお辞儀。

雰囲気が変わる。
「Underground」「Imagination」と耳に入る単語で10曲目は「書」だと知る。

緑のライトが灯りつつ暗い空間。
ギターが入ると赤いライトが点いた。
叩きつけるようなバスドラ。
胸元のリボンをほどきながら歌う久我さん。
その場その場しか、目に映すことができない。
歌詞の中に「支配される」とあるからなのか
曲と空間に、言葉のまま「100%支配されている」と感じる。

間奏は赤ライト。
なだれ込むようなドラム。明滅する赤ライト。
その後の漆黒。静けさ。

「最終章から」のところで赤いライト。
微動だにしない客席と、ステージ上のメンバーたちが印象に残る。

「You are invited」という言葉に続き、滴り落ちる水音。赤ライト。
耳慣れた音を聴き分けて「淫火だ」と思った時には、周囲の気配は変わっていた。
11曲目は「淫火」

赤と紫のライト。マイクをつまんで持ち、歌う久我さん。
従順な客席。大きな渦や濁流のような強い流れに抗わず、従順な人々。
「列となる」という歌詞が目の前の情景と重なる。
地獄の門のことをどうしても思う。
間奏は紫のライト。
赤いライトの照らす下で客席はヘドバンの波になる。
「おいでおいでおいでー!」と叫ぶ久我さん。地獄へ誘う悪魔なんだろうか。

空気が変わる。
軽快で、耳慣れない音。
知らないわけではないけれど、曲名が分からない。

ギターとベースの掛け合いがされて、客席は大きく左右に揺れて手拍子。
サビの明るさ、さわやかな疾走感。微笑みと笑顔。
サビのところで、客席一人ずつ指さして目を合わせていく久我さん。

(後になって分かったが、私が油断しているうちに聴けていなかった配信限定の新譜から「リップ・ヴァン・ウィンクル」だった)
(ライブに行っていないと、AmazonでしかCDを買わないので、見過ごしていたことに納得)

この曲、私めっちゃ好きになる予感がする、とメモに残している。
初見で、混乱せずに素直に把握できる曲って、LIPHLICHに珍しいなと思う。

ところで「リップヴァンウィンクル」って、なんだっけ?と思う。
岩井俊二の映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」は見たものの、意味には言及がなかったような気がする。
子供の頃に、実家の書棚に「リップヴァンウィンクル」の絵本があったことを記憶しているが、内容は思い出せずに後日ぐぐると、

アメリカ英語では "Rip Van Winkle" は「時代遅れの人」「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句・普通名詞にもなっている。

とWikipediaにあり、なるほど、と思ったので書いておきます。
絵本の内容というか、話としては、浦島太郎のような話でした。

話が逸れたんですが、この曲の表情は
「現在の、等身大のLIPHLICH」
「演じないLIPHLICH」
が見えたような気がします。いまだ、歌の内容は良く知りませんが。

MC
今までAREAで沢山ライブをさせてもらったこと、全曲ワンマンみたいなわがままを聞いてもらったこと。初めて出演した時、敷居が高かったこと。2013年に初主催をしたことなど。感謝。思い出。

「後半行けるかー」の声と共に、
「初主催で出した会場限定CDのPink Parade Picture」で13曲目。

ピンクの照明。懐かしさがすごい。原点を感じる。
でも当時よりも、整えられているとも思う。驚くほど聴きやすい。
久我さんがドラムスティック持って、ギターソロのところでドラムのシンバルを叩いていた。

ドラムにフィーチャーし、始まった14曲目「ダイヤの4P」

最初見た時はふざけてるのかと思ったポーズ、久しぶりに見ても笑ってしまう。
軽快でキッチュな曲調、かと思えば表情が変わり、古いアメリカ映画のキャバレーみたいな華やかで大げさでドラマチックで世界観。
黄色いライトから、サビでピンクのライトに変わり、一気に華やかさが増すところがとてもいい。客席も左右に揺れながら大きく手拍子。
独唱のところは青ライト。声が伸びる。
久我さんの声の伸びがとてもいい、世界にも曲にもすごく似合う。
この曲の声を伸ばすところ、とても好きです。
ていうかこの曲が、すごく好き。かわいい。

ていうか、今更ながら歌詞ちゃんと読んで驚きました。これ、おもちゃ箱の歌なのね。

ドラムとうねるギターだけの導入。
15曲目は「アルトラブラック」

激しく左右する客席。空気が一気に薄くなる。理性が飛ぶのを忘れて見てしまう。
言葉一つ一つを確かめるように聴き、トリッキーに上下する音を追って、音に条件反射する腕に素直になる。
歌詞の中の「楽しいことをしよう」という言葉に引っ張られたのか
音が終わって、我に返り「面白いな、楽しいな」と笑ってしまう。

「次ちょっとしっとり行きましょう」と言い始まったのは
16曲目「月を食べたらおやすみよ」

ベースがとても効いている。
左手の人差し指を立てて、教えるように見まわして歌う久我さん。
深海みたいな空気。瞬きをしない客席。
引っ張り込まれる歌の力。映画を見せられているみたいな。
「すべては君の望んだままに、全ては君の思うがままに」

ギターソロがとても良かった。今日一良いとメモしているくらい。
アウトロに重ねられるコーラスがすごくいい。
最後の音が消えた瞬間、ドラムが入り次の曲へ移った。

17曲目は「ミズルミナス」
16曲目の「月を食べたらおやすみよ」はミズルミナスのアンサーソングである。

ピンク、青、白のライト。揺蕩うような揺れ方をする。
女性の一人称独白で、愚かしさの吐露をし、
「もしも私が死んだ時には、スープにして食べてよね」と恋人に訴える。

手を差し伸べて見下げる仕草。
歌に重ねられるギターが映える。
ベースソロからのギターソロがとても良かった。
その空気が崩されないまま歌が入った。

18曲目は「STRAYSTAR」

メンバーが等身大に見える。
客席がいきいきするのを感じる。
私が追えていなかった近年の曲は、幻や物語を描かない彼らの実体が見えやすい気がする。
指引きのベースソロからギターソロへ。変わった音が入る。
「ラストは地獄へ」

「何度罵ったでしょう、踊り狂えメス豚」
と言って19曲目は「ヘンピッグ」
楽器3人の見せ場だ。
この激しさと速さでも、演奏は乱れない。
飛び込んでも受け止めてもらえるような安心感がある。
それがないと飛び込んでも後悔するな、とも思う。
渦と曲の中に飛び込んで没入してしまいたい衝動に駆られる。
馴染みの深い曲だからというのもあるし、条件反射してしまうというのもあるけれど
演奏への信頼が強くなっていると思った。

20曲目は「サタンの戦慄」

「オイ」「オイ」と拳を掲げて、ベースがデスボで客席を煽る。
これも最近の曲だ。
会場で曲名が分からなかったけれど、あとで音源を確かめてみて驚いた。
今までLIPHLICHに和風の曲はいくつかあったけれど、どれもしっくりこなかったけれど、これは和風な演出が板についていると思う。

「次は一緒に悪いことしましょう」で始められたのは
21曲目「グロリアバンブー」
この曲は私がライブに足を一番運んでいた当時の曲だ。
耳慣れているし、彼らにとっても演奏し慣れている定番曲だと思う。
だからこそ、「確かめて、安心する」という感があった。
ギターもベースも映える映える。
演奏する側も、客席も、全員が多幸感に溺れるような空間になる。
「最高です」

高揚の後に続くのは、青ライトで照らされた静寂。
ギターの導入で、久我さんの語りが挟まれる。
「星とAREAと私、僕は表現の中で、星とか夜空とか夜闇の中で光るものを歌詞にするんですけど、思い出のある曲が増えました」
「僕自身、LIPHLICHがどういうものか分からない。
 皆さんを星に例えたりしていますが、僕らが一等星になるためには
 支えてくれる人がいて、見に来てくれる人がいて
 この場所でやったライブはワンマン、イベントを含めると100本を軽く超えてます」
「素敵な思い出を本当にありがとう」

22曲目は静かな独唱のような「星」に続いて
23曲目は「星の歯車」

僕は僕にしかなりえないから

少しだけ素敵なこと君に言えたらいいね

サビ付き ギシギシと大きな音立て 回ろう 他から見たら不要でも
巻き込む 気付いて出会い愛すべき人が いつもそばで待ってるから
こんな歌を歌い続けていく僕は きっと星の歯車

今まで耳にしていても降りてこなかった「星の歯車」の含む祈りが
すとんと胸に降りてきた気がした。
フロアでは皆が祈りを捧ぐように拳を掲げている。
ベースがめっちゃ刻んでいる。ドラムはとてもタイト。信頼できる。
ギター、この曲だけはハウらないでと見守るような気持ちで見る。
サビの一体感。ステージと、フロアと、空間全体の。
この場所にいる人の祈りが見える。

LIPHLICHは、というか、久我さんは、謙虚だなと思う。
何て迂遠な形の祈りなんだろう。
自分は自分でしかないから、いつまでもここにいるから
それでも少しでも素敵なことが届くことを祈ってるという。
そしてそれを見守り支える客席の祈り。
これがライブを見に来る意味だ、と改めて思う。

空気が薄く、近視眼的な、目の前100%を占める祈りの情景。
曲が終わり、光に溢れて、拍手があふれて、笑顔の退場と見送り。

暫しの休憩の後アンコールが始まる。
赤いライトが点いて「いけるかー!」の声で始まったのは
アンコール1曲目「ウロボロス」

本当によくできている曲だと思う。
客席のテンションがぶちあがる。私も音に対する条件反射のようにその波に乗る。
私、LIPHLICHでこの曲一番好きかもしれない。

リリースされた当初は、何???と思った歌詞だったが
なんどもこのライブでの忘我を経験させてもらって、結果、問答無用で好きです。

余談だが、私はこの曲で「ウロボロスとは何か?」と初めて知った。

ウロボロス (ouroboros, uroboros) は、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。(Wikipedia)

ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。(Wikipedia)

人間は自分のしっぽを飲みこんでいく蛇で、
歌詞に「蛇であれ、尾を食らえ」「すべて飲み込め」「be a snake」とある通り
リスナーに「蛇になることで何度も失敗して死んでも再生するから大丈夫」だと提唱しているのだと、私は曲を知っただいぶ後になって気づいた。

アンコール2曲目は「Sex Puppet Rock‘n doll」
かつて会場限定シングルで発表されたこの曲が、こんなに定番の愛される曲になるとは、正直思っていなかった。

ピンクのライトの下で、メンバーたちがステージを駆け回る。
久我さんの顔に汗で髪が張り付くのが見えた。
ギターの見せ場。新井さんはこういう音が好きなんだろうなあと思う音。

「言葉には十分したので、時間の許す限り、曲を届けるしかないよね」

アンコール3曲目は「リインカーネーション」

アルバム「蛇であれ、尾を食らえ」の終盤にある結論のような祈りの曲。

さあ繰り返そう永遠の世界 みんな夢中で流れ
いま廻ってる僕らの世界 何度だって行こう 何度だって死のう

「救い」以外の言葉が見当たらない曲。
歌の意味が真ん中にある。シンプルな構成の曲だとステージを見て気づく。
久我さんが、客席に向かって捧ぐように手を伸ばす。(手扇子と言えば伝わるだろうか)

虚しく覚え 優しく忘れ 僕はきっと変わらない
そしてなにもかも全部 愛してると言えるように行け

さよならまで足りないし一緒に作りませんか
何でもないこんな日には柄にもない歌でも歌おう

こんな大団円を、私は今まで何度繰り返して見せてもらっただろう。
彼らがライブで、この曲を演奏するというだけのことだけど、
その中に祈りが内包されていないと、こんなに涙腺に来るような気持ちには
ならないんじゃないかと思う。

「この場にいる誰一人として置いて行かない、疎外しない、連れていく」
「全員と繰り返す永遠の世界を愛してる」
という言葉は歌詞にはないけれど、これが演者としてのLIPHLICHの、
何よりも久我さんの祈りなんではないかと、強く感じる。
客席への愛情と信頼があればこそで、その場の中に自分も存在していることに震えた。

かつてフレイフレイで

「永遠に回れ 永遠に続け 終わるのは君だけでいい」と歌い、
私はそれを自分事として
「ついてこられない人は置いて行かれる、潔くもう諦めよう」と受け止めた。
ずいぶん前になるそんな記憶を思い出して、
目の前の景色と重ね合わせてちょっと涙が出た。
ありがとう。

アウトロはギターとコーラス。
なんだか、合唱曲みたいだと思った。

アンコール最後の曲は「夜間避行」

夜空に模した青ライトに包まれた会場。
かつて彼らは自分たちのことを、この曲で闇夜に飛び続ける飛行機に喩えた。
空間の中に居るお客さん一人一人が、彼らを見守る遠い星だと。

記憶の中のステージよりも、空間の一体感が強くなっていると感じる。
目に見えるような祈りがある。客席からの。ステージからの。

マイクなしで
「落下点は、夢の最果て――」と叫んだ久我さん。
客席へ「I love you」と言ってからのサビ入り。

さあ この夜 飛び続けよう 追い越す星空
さあ この夜 走り抜けよう 流れる夜空

この曲は、もし私がライブに足を運んでいなければ、
これほど胸に届くことはなかったんじゃないかと思う。

星の王子さまを書いた作家サン・テグジュペリは、飛行機乗りでもあって
ある日の夜間飛行の途中で行方不明になったそうだけど
(海底で生きているとか、そんな話もあるけれど)
傾いていくとか、落下点の話は、少なくとも私は彼らにしてほしくはない。
会場にいる誰もがそう願っているとは思うけれど。

でもこの曲を書いた時は、それが誠実さだったんだろうなとも思う。
その後に、前述の「リインカーネーション」を書いてくれたから、心からよかったと思う。

私は彼らを信頼している。
音楽に対する誠実さを、彼らの表現力を、そして祈りと誇りを。
この日、一日で多くの景色を見せてもらえて、なんども驚いたし息を飲んだ。
それは、初めて彼らのライブを軽い気持ちで見て、時間が止まった10年近く前の日のようだった。

終演後、AREAを後にして、
久しぶりに会った友人たちと
「今日、すごく良かったよね」「いい日だった」「すごく良かった」
と言いあいながら食事をして帰った。

「AREAでワンマンもうないって嘘みたいだよね」
「またAREAかよ、って言う気がする」
「実感ないな、またAREAでのLIPHLICH見れる気がしてる」
「年越しあるから実質そこが最後だけど、行かないならもう最後だよね」

そんな話をしたのを憶えている。

ぼんやりと忙しく過ごしていたら、気付けば年を跨いで、既に2021年は過去になってしまった。
もうAREAは二度と入ることのない場所になってしまっている、ということは頭でわかっているけれど、いまだにピンときていないのが正直なところだ。

愛着があった大好きな場所、という訳ではなかった。
ただ、たくさん足を運んだし、たくさんのすばらしい景色を見せてもらった場所だった。

ライブの中で彼らが、AREAでの思い出を話していたけれど
AREAにいかに支えてもらったか感謝をしていたけれど
ただの客として足を運んでいた側からも、感謝したいと思う。
数多くの景色をありがとうございました。
LIPHLICHに限らない色んな記憶があるけれど、私のここ10年については
AREAという空間がなければ、違ったものになっていたと思う。

昔、LIPHLICHのライブ後に、
会場であるAREAを後にする客一人一人に握手をするというイベントがあって
そこで列が前後だった女の子は、いまや人生に欠かせない友人になっている。

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