見出し画像

いじめをどうするか あなたはいじめられたことはありますか?

あなたはいじめられたことがありますか?

「いじめ」

いじめがなくなるのか。なくすことができるのか。

これは人類が始まって以来の問題だと思う。


ある意味遺伝子に必然的に組み込まれていることを、

人間として押さえコントロールするということだろうか。


現在においても性犯罪、幼児虐待すらなくせていない人間が

この問題に優先順位を置いて取組むことにどれだけ大きな社会的価値があるのか、そこに優先順位をおくことが将来から見た際に必ずしも正解といえるのかはわかりませんが、考え理解することには意味があります。

いじめには必ず、当事者関係者間でそれぞれの

理由状況感情

があります。

学校でよく騒がれるいじめはよく、

容姿(外見の印象、肌の色、身体的特徴)音的要因(言動、食べるときの音)行動(身体的な動き、その癖)が原因であることが多いです。

自分も何度かいじめられるような状況に置かれることがありましたが、

その流れ、状況を察知し、エスカレートする前に抑止をするということで、

楽しく生活することができています。


人との関係を理解することで回避できることはあると思います。


私は人生で二度、いじめられそうになったときがありました。


1度目の理由は

髪の毛や目の色が茶色く目立つ、転校生であった、背が低く小柄

であったと自分では分析している。

見た目上はいちゃもんをつけられた形で絡まれたがそれ自体は理由ではなかったりする。


転校して1週間頃一人で下校中に

「どこ住んでるの?何で一人で帰ってるんだよ?」と聞かれ、すでによくない雰囲気なのは気づき、特にリアクションをとらずに適当に回答した。

そしたら「おもしろくねーな。」と軽くはたかれた。

まあその程度むきになって怒るほどでもないと無視して、帰宅。

また数日以内に下校時に待伏せをされ同じように絡まれる、

そのようなことが数回あり、軽く方を押されるなども入りはじめた。


ある日、おなかを殴られる、すねを蹴られるなどに発展した。

元から気が長くなかった自分は

「いってーな、何すんだよ」と声を上げ、

目をそらさず、どつき返した。

内心どきどきして恐怖もあったが逃げなかった。


相手は「怒るなよ、なんもしてねーだろ」

といいながら去っていった。


それからというもの絡まれることは一切なくなった。

自分の位置づけが相手の中に明確にされたのだ。


二度とその学校でそのような形で攻撃的なことをされることはなかった。


それは選択を間違わなかったからだと分析します。


もしあのときに弱気になっていたら。

逃げていたら。

その問題はつきまとっていたのだと思った。


2度目はフィリピンに1ヶ月の留学中におきたことです。

留学したとき、

自分は唯一の日本人、

他の生徒は全て韓国人という環境であった。


入って2日目、突然韓国人に囲まれ、大きな韓国人の一人に胸ぐらをつかまれた。怒鳴り気味で聴いてきたのは

「ドットはどっちのものだ?」と聞かれた。

「???」

はてなマークが飛んでいたところ他の韓国人が

「日本では竹島と呼んでいる島だよ」

(一応補足ですがすべてやりとりは英語です)

といっていました。


自分は

「正直日本人はよくわからないし、興味がないが、歴史的に世界の認識からしても日本のもの」


と回答したら突き飛ばされました。


兵役中に鍛えたということで自慢の体だったようですが、

学内の懲罰と、

私がキックボクサーである、という噂をきいてとどまったようでした。


またその翌日、自分を囲ってきた韓国人が猫を蹴飛ばしプールに入れていました。

いじめです。

咄嗟にその場に居た韓国人の女の子に

「どうしてあんなことをするの?残酷だ」

っていったところその女の子の回答は

「韓国の物語で犬は人間にとって良いけど、猫は悪いことをするから猫がいじめられるのは仕方のないこと。私も猫は嫌い」

と猫がおぼれるのをみんなで爆笑してみていました。

なんとかよじ登ろうとした猫をまた突き落とし、再度爆笑していました。


我慢ができなかった私は

「STOP IT NOW!!!」

と叫び、やめさせようとしました。


にらみあいとなり、険悪な状態になり韓国人は韓国語で(おそらく)悪態をついて去りました。

猫は無事助けることができましたが、心の怒りはおさまりませんでした。


そして、一部の韓国人とはずっといつ喧嘩がおこるか、というような状況でした。

この問題点はひとつめのときと大きく違います。


その人たちは自分たちの信条の中で正しいことをしていて、私も自分の信条に正しいことをしている。

こういった場合で数の関係でいじめとなった場合は解決が困難です。


いじめのきっかけがお互いの宗教の信条的対立になった場合、

大きくなった場合それは宗教戦争、紛争、テロになります。


先日パリで、インドネシアで起きたようなテロもこれからも起こるであろうことは誰もが予測できます。


これ自体も教室のような状況で考えたとき

マジョリティ(大多数)がマイノリティ(少数派)に対して意見を戦わせていたらそれは一般的に「いじめ」になりえるのです。


どちらかが倫理的に明らかに悪いのであればそれはどちらかを責めれば解決するかもしれない。

しかし、それがお互いの信条、正義に基づいているとき、間違っていることをしていないと信じている人にとって、「それはよくない」と一概に強制的にやめさせたり、批難されて終わるということもないと思う。(歴史的には、キリスト教を信じている、ユダヤであるというだけで、信条すらも悪として罰せられる、虐殺されることもあったが)

またいじめの理由も

「人類として劣っている場合」

もしくは

「人類として優れている場合、劣っている側が将来の力関係の逆転を恐怖に感じ虐待、虐殺」

なども起きています。

黒人とユダヤの迫害、虐殺がこれnあたります。


これはいずれも自分たちの命を守る本能として個々では勝てない可能性があり、数の力を借り「いじめ」という形で行うのです。


人類でも、自然界では基本的に生き残る能力がないものは淘汰される、これはビジネスの世界でも自然の摂理として働くよの常です。

そして少し視点を変えてみた場合に関係者すべての意見を汲み取ること、これ自体が未来からみたら人類のためには悪という結論も出るのかもしれない。


人類は将来的な食糧問題、水問題などのために争うとも言われています。

中国は特に必死に批難されながらも外交しているように、他国を攻めている。これも内部の安定のため、気を外にそらす、経済発展して内乱を抑えるために行っているという見方があります。

内乱が起きて中国経済が大きく悪化した場合、世界的にも大きなダメージをこうむる。これは正義に基づき行っているともとれます。

また内乱が起きたときに自身の命を奪われない保身のためにやっているともとれます。

個々の正義かもしれませが、それにより攻撃し、死んでいる人がいます。何も知らずに未来ある命を愛する人を奪われておいて、それを冷静に仕方ないと思える人はいません。

これを元にまた新たなる「正義」から人を殺すという形で応戦をするということ、それに育った、新たなナショナリズム(これも「正義」)の元に戦争の準備を進めることもあるのです。

「いじめ」「正義」

似ていないようで非常に似た意味合い、複雑さを持っている言葉です。

「いじめ」

いじめは単純によくないから「今すぐすべてやめろ」というのも個人的には間違っていると思うし、時代遅れのように思います。


しかしもちろんそこに争いがおきて死ぬ人、学校レベルのいじめでも自殺者がいること、うつ病になる人がいることは歓迎していないし解決するべきである。


「人間の習性」は2ちゃんねるでよく見えてきます。

そこから見るに、「いじめ」は絶対的になくすことはできない、と思ってしまいます。


もし、解決の手段として今できることは、

「相手の立場になって考えること」

だと思います。


加害者側(いじめる側)はたとえ「正義」があったとしても、短絡的に言葉もしくは肉体的暴力に走るのではなく、相手がどうしてそのような言葉、行動、信条を持つのか、考えあらゆる仮説をめぐらせてみてください。

そして理解できなくてもいいので、それを「あるがままに一度受け入れてみる」ということを行ってみてください。

たとえ相手に興味がなかったとしてもそれを行ったあなた自身の器が大きくなり、人としての魅力が増すチャンスとなっています。

「イラッ」=「成長チャンス」

という形でとらえる習慣にしましょう


被害者側(いじめられる側)は相手がどうしてそのような行動をとるのか、相手は不器用な人で、自身の意見を通すためのひとつのコミュニケーションの方法として行ってしまっているととらえるこができないかと思っています。

相手を変えることと自分を変えることのどちらが容易かと考えると、自分が変えることが一番早いのです。

自分の精神状態、見ている世界、持っている目線を分析、

相手と比較をし、理解をし、いじめというとらえかたでなくすることが相互に助けになります。


-人は感情さえ選ぶことができるのです。あなたが幸せだと思っているならば、どんなけ虐げられようと暴力を振るわれようと何人たりともあなたの幸せを壊すことはできない-

あなたが殴られていても、どれだけ罵られていたとしても、「私は幸せだ」と思っていたらその気持ちを誰も否定も変えることはできないのです。

心の力ほど強いものはありません。ガンジーから学び、生きるということが大切に思います。


多様性がグローバル化が求められている今の時代の生き方として、心に刻んでおきたい言葉です。


非常に難しいという「いじめ」という問題

相互理解がベストですが、関係者相互が別々に各々のペースでいいので取組んでいける世の中になっていけたら、基礎教育の段階で組み込んでいくことができたらと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?