ジャンプのインフレーション

 今はどうか知らないが『週刊少年ジャンプ』は、「強さのインフレーション」が「通常運行」だった時代があった。
 先般お亡くなりになられた鳥山明先生の代表作の一つ『ドラゴンボール』シリーズの初期以外の傾向とか、久保帯人先生の『BLEACHブリーチ』とか示せばことは足りるでしょう。
 ちょっと前の時代、とりいかずよし先生作のギャグ漫画『トイレット博士』の、シモに走ったギャグの過剰に進んでいく、読者ウケのために進んで行かざるを得なかったらしい様子を振り返りみれば、たぶん「時の徒花」めいた「強さのインフレーション」は読者アンケートによるフィードバックを真に受けた、読者ウケ至上の編集方針、作品制作方針の、当然の帰結だった、と考えて(夢想して、思い描いて、妄想して)おそらく差し支えはないでしょう。

 ……同じ掲載作品ながら逆に過激から「日常系」めいた温和な、あるいはマンネリな、「繰り返される日常」めいた作柄へと変質(ある意味では「堕落」、ある意味では「熟成」)した秋本治先生作『こちら葛飾区亀有公園前派出所』がだいたい同じくらいに一貫して1回も欠けることなく掲載され続けていたことも興味深い。……初期の破天荒な主人公と、輪をかけて破天荒な脇役たちが暴力とギャグとを繰り広げる、そんな作品、作風だったと記憶しています(てきとーにしか読んでなかったけどさ)。かろうじて「下町人情」がその "暴力"と"ギャグ" の防波堤だったような気がします。とはいえ、その「下町」こそが粗野でオヤジがゲンコで殴って躾ける、そんな世界、なんですけどね。老練して温和になった「下町」像しかしらない「よそもん」の描くイメージと、中期後期の『こち亀』は、よく(上手に)重なって見えているのでしょう。「派手め」だった頃を知っている人間からしたら「ぬるい」。どこか「お高くとまった、趣味人」っぽさが、両津がシロガネーゼか世田谷か松濤あたりの「山の手」夫人にでも去勢されてなってしまったかのような気さえしてしまいます。
 おっと、『こち亀』批判は……ま、ほどほどにします。
 後期の「趣味漫画」は、1回1回、テーマが異にしつつ、丹念に調べられていて「ネタ」としても厳選され、よく「描かれていた」と、わたしですらも一定の評価をいたします。多関節フィギアとか現実に商品化さえ成し遂げてしまっていましたからね。それはそれで(初期とはまるっきり違う点が不満だとしても)大きな「仕事」だと思います。正座する両津勘吉・多関節フィギア、あれはあれで「いいもの」です、現物は見たことないけどね(写真でしか知らない)。

 「ジャンプのインフレーション」という「型」を、経済学上の用語としての「インフレーション」に引っ掛けて、経済談義(経済学談義ではない)を展開するつもりだったんですが、『こち亀』を「均衡財政・緊縮財政・ 反インフレーション・デフレーション」と言ってしまうことに躊躇いを覚える。躊躇いながらも、でも「平成のデフレーション、経済成長せずむしろ『終わらない日常』の中に埋没して『手持ちのカネでやりくりする』縮小経済」をあたかも象徴するかのように、マイルドな趣味漫画へ転じた作風の掲載時期は「重なっている」ような気がします。
 『週刊少年ジャンプ』の掲載漫画作品の作風が「日本経済の成長・停滞から縮小」を端的に示すかのように(統計学上の)「相関」をみせている、のかどうか、厳密にわたしは調べていません。

 漫画以外の複数の「メディア(アニメーションやゲームや副次作品群)」に転写された『ドラゴンボール』は世界のあちこちで "読者ウケ" が得られているやに聞きます。
 「ウケ」ている土地は、ひょっとしてその国や土地の「経済が成長(インフレーション)」しているのではないでしょうか。その国や土地のインフレーション機運を鳥山明先生作『ドラゴンボール』が引き起こしている、などとは言いません。けれど、国や土地の経済成長機運と『ドラゴンボール』における「強さのインフレーション」描写とは、気分として「重なるものを感じて」いるのではないでしょうか。

 ジャンプと無関係に、ほのぼのとする漫画として『三丁目の夕日』というものがあります。これはこれで何かを象徴しているかのような漫画作品ですね。
 西岸良平先生(76)作。仕事量は減らしているものの連載は続いているようです。……テレビアニメも、あったんですね。劇場公開映画の方は仄聞してましたが。
 時代は「経済成長する期待あふれる "薄暮" の時代」、それが「高度経済成長」と呼称されるかどうかも定かでない時代に、ひとびとが「一所懸命に」生きた様子を人情で綴る、そんな作風、作品だったかと思います。『ビッグコミックオリジナル」掲載だそうですが、まあ、まず「読まない」作品です。つまらなくはない、おもしろい、けど別の掲載作品の方が興味深い。展開が気になる。あるいは素朴に刺激があって読んで面白い。ヒマがあったら「読もう、っかな」程度の、言っては悪いですがそういう扱いをわたしはしていたと思います。
 娯楽作品なので当然、すべて「創作」で、基本「ウソ」です。でも「しみじみと」してしまう、読むとそういう「感覚を得る」のは西岸良平先生の腕、手腕です。「当時」の現実の描写を入れているとしても、それは加工され読者に受け入れやすくなった「現実ではない」描写です。
 いってしまえば「経済成長時代(インフレーション状況)」を、デフレーション視点で描写叙述してみせた、「日常系」「変わらない日々」漫画作品だ、と言い切れるかと思います。
 掲載開始は日本語ウイキペディア「三丁目の夕日」記事ページによると 1974年 昭和49年。平成暴騰の「バブル」よりは「前」、さりとて昭和末期の好景気・高度経済成長からは後です。
 テレビアニメーションは平成2年から平成3年の半年。27話、ツー・クール。

 文学作品、いや漫画だけど、そういう創作作品には「その時代の社会が色濃く反映されている(はずだ)」という見立てにはそう齟齬はないかと思います。経済活性、経済活動の度合いと作品の作風変遷がどれほど「相関」(統計学の用語)するかは統計学の手法で「処理」すれば詳かになることでしょう。その前段の「数値に落とし込む」ところが大きなネック(ボトルネック)でしょう。「数値に落とし込む」ってことは「数値に落とし込めない」要素を見限り見捨てるという決断をする(個人が、統計操作をする人間が)ということです。「取り零した要素」は誰か拾い上げてくれるものなのでしょうか。気がかりです。

 「ざっくりとした『印象』」は学問ではない、議論にあたしいない、評論にあたいしない、という価値観は、確かにひとつ「あってもいい」でしょう。けど、「取り零さない、とりあえず『全部確保してる』」って言説は、今後の「研究材料」にも「思索・思考の材料」にも「利用可能」な(統計学のいう)「ローデーター・生データ」として価値があるのではないでしょうか。


 ……と、とりあえず自己弁護というか、この「文章」に対する擁護の弁を最後に置きました。
 「意味がある・意味がない」とか「価値がある・価値がない」とか、人は軽率に言ってしまう。勘弁で分かりよく、事情や複雑を「斬り捨て」てしまえる便利な二分法です。ですけれど、濃淡の微妙は、この「手続き」によって(たぶん、永遠に)喪失されます。不可逆の変換手続きです。言語の特性、性質、仕様がもつ「他は『無かった』ってことにしてしまう、強制」の力を理解した上で、そうおっしゃっている、とはわたしには思えないことがあまりに多い。

 だから、無謀、あるいはドン・キホーテっぽく、カミュ先生が発見なさって主張なさったフランス語の「水に濡れないつもりで水に飛び込む」という意味の「不条理」を、わたしなりの実践として、こんな「駄文」を書いてみました。

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