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あけっぴろげな身体

 いちおう皮膚(上皮細胞とやら)に身体は覆われている、とされている。人間の身体の「外と内」は皮膚のアッチかコッチかによるなので、人間は「ドーナツ状」をしているトーラス構造であると(いちおうは)言える。口の中も鼻の中も食道や肺胞や胃袋や延々とくだって(と省略して)腸は、管状だったり袋状だったりするけどどれも中は「お外」だと言える。
 なんでこうも「外」密接かといえば、皮膚という境界面では物質を交換しないと人間は死んじゃうのである。死んじゃう?というか物質交換そのものが「人が生きている存在する」という現象そのものだと言える。あーんまり、そういう視点で表現するのは通例ではなさそうだけれど、「生きてる」ってのは(宮澤賢治さんがなにやら詩に記しておられるうように)「現象」です。それ以外に言い表し用がない。ないけど、人間は自分を特別な存在だと思い込みたい癖があるんで言葉もことさら別にして、うーん、なんだろう、俺たち特別!っていうエリート意識?を共有したがるようです。「現象」っていう捉え方ん先には、「生物、みたな同類!」みたいなパラダイムが待っているかと思います。日本の「神」概念もなんだかそこに近いんじゃないでしょうかね。わたしの中では等価っぽいです。

 物質交換の例をここでことさら出してもなんなんで(世の中に「わしゃぁ酸素も吸わん、二酸化炭素も吐かん。腹も減らなきゃ屁もしない。」という稀有な生きておられる方がいたら、一緒にしてごめんなさいだけれど、普通は呼吸や食事、排泄は日常でしょう。発汗もすれば垢も出る(垢が縒れるって言い回しがあるけど、まあ縒れるようになるほど身体を洗わないのは衛生面で問題のありやなしや。皮脂を蓄えておくって意味では「垢も身のうち」ってことの実践としてはなくもない……のだろうか。わかりません。まあ、なんにしても「ほどほど」に)、涙も出れば鼻水も出る(おいおい)。涙液は外に溢れ出るかどうかはともかく常に眼球の保護、清掃。表面状態維持のため「流れ」続けているらしい。

 ウイルスや毒性のある微生物が、だからこの物質交換の流れに乗っかって身体内部へと入ってくるのは必然なわけです。必然なんで、いわゆる「免疫」という身体の総合力が培われてきたわけです。わけです、で畳み掛けるわけです。いや、それはダメな文章だろ(苦笑)。とくに面白みのない文章を書くと、読む方が飽きて(書く方もダレて)より一層、高度なつまらない文章へと進化するのです(おいおい、そんなダメ進化、止めろよ 苦笑)。

 人間が「生きる」ってことの物質交換を止めずに、人体に仇なす病原性物質やら毒性生物からの被害をいかに低めるか。身体機能を援助したり応援したりするくらいしか残念ながら人間様の医学なるものは使えない道具です。まあでも使えるものは藁でも使う。麦わらのなんとかでがっぽり一儲け(いや、ルフィーは関係なかった それと「溺れる者は藁をも掴む」は某亡国公然思想結社表向き政治結社の「あそこ」の所業の根幹じゃん……という話はまた別の機会に 苦笑)。
 ともかく、「死ぬまで生きる」人間なれば、ちゃんと食ってちゃんと運動してちゃんと寝て、日々を過ごしましょうね、というお話、だったかな? まあいいや。人間の身体は引き篭もっていない。閉じた系ではない。あけっぴろげで大らかで、来る物は拒まず、去る物は追わず、たんたんと糸紡ぎの車が回転するように、日々時事刻々、本質において「変化して止まない」存在です。まあ、止まったときは死んだときであるわけです。なので、あーかるく、よーきに、いきましょう(ぴろきさんのネタか、これは)。おしまい。

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追記。
 「明るく陽気にいきましょう」のぴろきさんを、あやうく、ぴろしさんと書きそうになってた。いちおう書き終えて保存する前に検索して確認したよ。調べて書くのは、大事よね(おいおい)。

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